『すずめの戸締まり』みた(いいところもあったけど微妙なところも多かった)
『すずめの戸締まり』みた。キツノカ師匠に誘われて。
みにいってよかった。気になるとこもかなりあったけど、全体としてはよかったと思う。
評としてはもう「物語る亀」のこれに尽きる。
https://blog.monogatarukame.net/entry/suzume_tojimari_2
序盤がとくにきつかった。ほんと帰りたかった。あのあほみたいにきつい坂を下りていくのに主人公がブレーキに指をかけてないのを見た時点で「うっ」ってなった。クツはいたまま水んなかじゃぶじゃぶ入ってったり、ボロボロの扉が地震を起こすほどやばいやつが飛び出す勢いになんのあれもなくもちこたえてること・その勢いをふつうに人力で押し返せること・それら両側からの力に扉がなんのあれもなくもちこたえてること、でも「うっ」ってなった。リアルとファンタジー(ディフォルメ)との境界・さじ加減が自分と違いすぎる。
あとごちゃごちゃしすぎ。いくらなんでもごちゃごちゃしすぎ。
1.主人公とイケメン椅子との恋愛、協力プレー
2.主人公と母親(?)との思い出、常世の景色
3.主人公の震災体験
4.主人公と継母的おばさんとの関係
5.主人公と同級生
6.敵か味方か、要石ネコ
7.おばさんといい感じになりたそうなメガネのちょっとごついあんちゃん
8.旅先で出会った同い年の子(化粧してるっぽい顔なのに寝るときも同じ顔)
9.旅先で出会った母子家庭
10.なんか一見態度わるそうなイケメン椅子の友人
11.イケメン椅子の人となり(学校の先生になりたい等)
12.いかにもそれっぽすぎるイケメン椅子のじいちゃん
13.敵か味方か、左大臣黒猫(ビーストモードは白黒逆転)
・・・・ってかんじでなんかもう要素多すぎ。絞れ。フリクリでももうちょっとわかりやすく(絞って)見せてる。しかもなんか消化不良ばっかりやし。同級生もいらんかったし、旅先で出会うのもひと家族でよかった(母子家庭の長女が同い年の子でよかったやろ)し、イケメン椅子と芹沢とおばさんと白黒ネコはまとめてひとりのキャラでよかった。
とはいえ、おそらくいちばんやりたかったんであろう「わたしは、あなたの明日」(うろ覚え)あたりは本当によかった。うるっときた。というか芹沢カーに乗ってからはふつうにおもしろかった。まあいっぽうで抜けた要石を戻しただけやで「かえるくん、東京を救う」とかと比べて「うーん」ってかんじはたしかにあるんやけど。
もうあこだけに絞ってもっとこぢんまりした話にすべきやったと思う。というか、最初はそうやったんやけど周りからなんかいろいろ言われていちいち足してってなんも削らんとああなったんじゃないかって気がする。
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んで、「わたしは、あなたの明日」はかなりおもしろい理想観(?)・こたえやなーと思った。
なんだかんだ、アニメマンガって「混沌へ帰れ」が最後のこたえのことが多い。エヴァがもろそうやし、ビューティフルドリーマーもそう。けいおんとかもそう言っていいんじゃないかと思う。クソみたいな(もしくは、キラキラした)日常へかえっていく、っていうのが最後のこたえになってる、っていうのがひとつの典型・定型になってる。なんかハイデガー的実存の亜種みたいな。それに対して、悪の組織とか誘惑してくる側とかが「都合のいい秩序」を押しつけてくる、ってのが多い。ブリーチなんかは主人公側の勢力が都合のいい秩序側で愛染・陛下が混沌回帰っていうおもしろい構図やけど。
「わたしは、あなたの明日」っていうのは、ジョジョでいうとプッチ神父に近いんやってな。未来は決まってる、覚悟して(安心して)そこへ至れ、っていう。なおかつ、ピンドラみたいに乗り換え要素もない。「混沌へ帰れ」VS「都合のいい秩序のおしつけ」やと秩序おしつけ側に近い。
あのシーン・・・・というか、そのこたえの示しかたじたいはすごいぐっときたけど、そのこたえそのものはどうなんかなーと思う。けっきょくナルトの「わかるってばよ」とかと同じ、ピンドラの「愛してる」と同じ、愛されてる・愛されたことがあるっていうのをベースにしてる。それがないひとはどうするんや、っていうことをどうしても考えてしまう。
・・・・んやけど、すずめの戸締まりがおもしろいのは、あれ自分で自分に言ってるってとこなんやってな。あれはあくまで「過去の自分を慰めることによって今の自分が救われる」っていうつくりになってる。なんといっても主人公自身は慰める側になるまでそのことを覚えていない(慰められた側、こども主人公からすると慰めの意味はあんまりない(イスがちょっと意味あるくらい))ので。
たとえば母親なんかはでてこない。そういう超越的なもんなしで、自分の境遇をあらためてわかりなおすこと・・・・ある意味、覚悟だけで乗りきってる。
そうなると「混沌へ帰れ」側にも近くなってきて、しかもナルト・ピンドラ的救いよりもなんか一歩進んでる感すらある。すずめの戸締まりの主人公じたいは愛されてた方やけど、愛なしで生きてきたひとも「いま生きてる」というそのことだけをもって「わたしは、あなたの明日」で救われうる。意図してるかどうかは別として、けっきょく「まわりはどうであれ、自分は他でもなく自分自身で救わなければならない」ってことにもなってて、かなり覚悟きまってる。
(とはいえ、「じゃあ死んだひとは?」ってことを考えると「うーんまあしゃーない」としか言えんし、かえるくん的ポジションの要石ネコの気もちはどうなるんやとかいろいろあるけど。)
というわけで、気になるところもまあいっぱいあったけど、この映画じたい、けっこうよかったと思ってる。
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特定の災害・事件・事故を題材にすることじたいには何の意味もない。大事なのは「命が大事」ということ、「命を守る」ということであって、それを達成するために扱うべきは防災・消防・危機管理・安全管理・抑止・リスク回避・・・・であり特定のできごとではない。けっきょく作家と呼ばれるひとたちがそっちを避けがちなのは「それがややこしいから」っていうのと「もっと他にエモい同情共感を喚起するものがあるから」でしかない。
で、同情共感を喚起するにあたっても大事なのは「誰でも不幸になりうる」ってこと、そのことを説得的に示すことであって、そこでも特定のできごとを扱うことは必要ではない(あるひとにとって特定のできごとをとおしてでしかうまく表現できんことがある、っていうのはもちろんあるにしても)。そういう同調圧力とか呪いとかはわたしはないほうがいい。理想をかけるのがフィクションの強みやとしたら、そっちにパワーが向いててほしい。
本当に大事な教訓なら、「特定のできごとが風化していくとともにその教訓じたいも忘れられてしまう」っていう作りになってたらそもそもあかんやろ。本当に大事なことはそれだけで成り立つようなことでないとダメ。特定のできごとを題材にしたいっていうのは結局「わたしはこの時代に生きてこんな特別な体験をしました」っていうエモさに安住しようとする結果でしかない。そういうのは少なくともわたしはいらん。しょうもない。「わたしは」と言うおまえそのものにはなんの興味もないし、そういう「わたしは」にいちいち配慮するっていうことは、声をあげられるやつが声のデカさで得をする世界にコミットすることやと思う、わたしは。だからそういう意味ではやっぱり好きになれん気もする。
フィクションはイヤなしがらみなしであってほしい。
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勢いでアマプラで『君の名は。』みたけど、すごいよかった。ポストジブリとか言われてたのもうなずける。
ただ、41:15~41:16あたり、信号がパッと切りかわるっていうシーン、信号が緑→赤に切りかわってる。こういうのどうしても気になってまう。こんだけ金とひとがかかってる映画でこんなとこ見落としてるわけないと思う(ほかのシーンではちゃんとなってるし)。ということは、このひとやっぱこういうひとなんやな。
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