インターネットのうつりかわり(便所の落書きのゆくえ)
ハセガワのザブングル騒動をみてて、わたしより年上のひとが「インターネットに慣れてないように見える」のをなんとなく不思議に思ってた。
で、なんとなーく考えてたんやけど、まずここでわたしのいう「インターネット」は「2ちゃんねるとかまとめサイトとかにおける煽りあい煽られあい」のことを指してる。
そのうえで、われわれ世代(より上の世代)でもいわゆる2ちゃんねる的な煽りあいに日々を投じてた人っていうのは実際問題そんなにえんであろうこと、かつそこをくぐりぬけてきたひとたちでもわたしの思うような「慣れかた」をしてるひとばかりではない、ということに思いが至った。
ということがありつつ、なんかずっと思ってた「インターネットそのものへの何か」をなんとなく考えるような考えるでもないようなかんじでいた。
(これすらもう10年まえやけど・・・・。そしてこの頃こういうひとたちはみんな「僕」と言っていた(今でもそうか?)。わたしが今「わたし」なのはこういうのに対する反抗もあると思う。まあこういう「僕」はそもそも匿名掲示板的「俺」への対抗やったんかもしれんけど。)
わたしが知ってる・・・・わたしにとっての母なるインターネットっていうのは、2ちゃん的なもの・まとめサイトコメント欄的なもの・匿名掲示板・個人サイト的なもの・投稿サイト的なもの・・・・やと思う。初めて自分の手の中にインターネットを顕現させたのはPSPが最初やったと思う。1989年生まれにとっての2005年(ぐらい)。たぶん。パソコンは大学はいってからやった。
そういうインターネットは、なんというか、掃き溜めやった。2ちゃんねる的な言いかたをすれば便所の落書きやった。ゴールでもスタートでもない、ただの掃き溜め。まあ多くのひとは多くの場合は人間の皮かぶってるけど、人間でなくなることにわりとためらいがない場でもあるというか。みんな「こんなとこ」「どうせ」って思ってる、みたいなかんじやった。おたがいに。
いまのインターネットはなんというか「いいねシステム」の場やな、と思う。誰が誰にいいねしたかわかるようんなってる。noteもいいねされると「あなたの記事がスキされました!」みたいなこと言ってくるし。まあ平たく言ってしまうと承認欲求ブースト&炸裂の場というか。
なんかわたしはそういうのにたいして「ほんとのインターネットになんか変なもんがついてる」と感じる。ほんとのインターネットもクソもないんやけど。昔ながらのインターネットにも非匿名的・記名的文化はあったし。2ちゃん的なもののほうが異質かもしれん。
まあただなんかどこ行ってもそういうのがついてまわるのは不便というか息苦しいなーと思う。わたしがひととかかわりたくないだけかもしれんけど。匿名の悪もあるけど、もちろん。
人生に外はない的なこといつも自分で言ってるけど、どこ行っても「どこ行っても人生やぞ」って言われるのはそれはそれでクソやと思う。たえられん。うるせえ。わかってるわ。まあけっきょく抜け道・逃げ場にも倫理道徳が浸透していくっていうのが啓蒙・教化であり暴力の人類史的なことなんやろけど。
(こういう曲じたいはあんま好きじゃない)
とはいえ、これもよく言われるけど、現実とは別にインターネットという世界があるっていう考えもおかしい。全てはいつまで続くか分らない人生そのものなのだ。だからインターネットっていう逃げ場・掃き溜めが人生とは現実とは別に用意されてるって思うのもよくない。
じゃあどうすればいいんや、っていうと難しい。とても。
長期的に見れば我々はみな死んでるんで、大事なことはそっから(たとえば将来から)でてきてるわけではない。どっからか出てきてるっていう考えじたいがよくないかもしれん、そもそも。
けっきょく「うまいことやる」「なんとなくやる」しかないんかな、と思う。なんかまた最強の独我論みたいな話やけど。
好きにやるってことの難しさを知って好きにやるってのが大事な気がするけど、それがプッチ神父とどう違うんやって言われるとそれもまた難しい。そういうのも含めて「インターネットもまた人生」ってことなんかな。
強いられたくないならなんかをわざわざせなあかん、っていうのは弱々しいながらもひとつの真理ではある気がする。それはインターネットに限らずそう。いいねシステムどっぷりやとなかなか抜け出せんけど(スポーツでも新興宗教とかでもおんなじやろと思う)。
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いや、でも、やっぱり正直に言うと、わたしは単純に掃き溜めインターネットが好きやし、イヤならみんとけばいい、と思う。
でも同時にやっぱり掃き溜めにも倫理道徳があってほしいとも思う。と同時にそこにひとの目を気にした自制とかはあってほしくないように思う。難しい。それは「こっそりやれ」だけでは片づかんことの気がする。「傷つけあって生きてることをわかれ」って言うのもちがう。
欲をいえば、なんかそういうのぜんぶが当たり前にあってほしい。でももしそういうのがぜんぶ当たり前にあるとしたらそれはおそらく選民の結果やろう、啓蒙教化というよりも。
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