悪しき意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない

 『アメリカン・サイコ』について書こう書こうと思いつつ年単位で書けてない。でも書きたいことはあるていどは決まってるので、ちょっとずつでも書きつつ書き直しつつしてことにした。アメリカンサイコ、みなおすたび心が揺らいで、わけわからんようんなる。パトリック・ベイトマンにとってのパトリック・ベイトマンがまさしくカメラの前で美しい肉体で娼婦を抱くような存在でなければならないという、あまりにこんがらがった孤独。

 パトリック・ベイトマンがいわゆる「吐き気を催す邪悪」のたぐいであることは間違いないと思う。でも、たとえば、サッカーが大好きで大得意なかわりに他になんの取り柄もないひとがサッカーのない世界に生まれたら、そのひとは不運としかいいようがないと思う。おなじように、自分がいちばんスッキリできることがもしひと殺しとかの反道徳的なことやったら、そのひとも不運としかいいようがないやろう。
 結局のところ、たとえばわたしがなんの気兼ねもなく気もちよくスッキリできるのは、ただ運がよかった・恵まれてるだけやったんじゃないか。どんなに世間に寄り沿おうしようとしても、持って生まれた何かがひととほんの少しずれているだけで、けっきょく沿いきれなかったり、あるいはひとよりも多くの努力が必要になったり。そういう不公平さが現にあるということ。それにたいしてはどう向きあえばいいんや。こたえはない。絶望しかない。それでもなんとかうまくやって幸せになれることもあるやろけど、うまくいかんかったらそれまで。おおもとの基礎のところで不幸をひとつ背負ってるだけで、人生まるごと運任せになったり背負うものが増えたりする。不幸は現にあるのに、ほかのひとよりどうしたって苦労せなあかんのに、運が悪ければ誰も助けてくれない。ほんとひどい話。

 パトリック・ベイトマンはあくまで世間の価値(観)を大事にしようとしてる。それを身につけようとして、確かにある意味では成功してもいる(少なくとも、「身につけようとすること」を身につけることは達成してしまっている)。一部はからっぽな仮面として。ついていきたくて、ついていかなあかんような気がして、でもそのままの自分では無理で、そこまで必死になってしまう。この遣る瀬のなさ。

 パトリック・ベイトマンにおいては、そのはけぐちがアンモラルなものとしてあらわれる。現実も妄想もない。道徳も反道徳も価値も無価値もない。ただ壊したい、殺したい、ぶちまけたい。

 パトリック・ベイトマンは、でも、けっきょくそれがアンモラルなものやということに後ろめたさを感じてもいる。だからどうしようもない。おれはおまえらに寄り沿おうとしてるのに。寄り沿おうしようとしてるのに、なじめんくて、むしゃくしゃして、ぶちこわしてやった。やった。でも、やるせなさをぶちまけるそのやりかたもまたおまえらに寄り沿わんやりかたで、おまえらは目をつむる。寄り沿おうとしても、ぶちこわそうとしても、おれがなにをやってもやらんでも、けっきょくはどうにもならん。おまえらはなんなんや。おれはいったいなんなんや。おれはいったいどこにいるんや。

 パトリック・ベイトマンの告解は結果的に空振りする。空振りする。そこにはバットもボールもミットも何もない。その何もなさにパトリック・ベイトマンはふれてしまった。
 それでようやく(あらためて、自覚して)気づく。仮面と対になるなかみなんてもんはどこにもない。ただそうである「かのように」があるだけ。みんないつか死ぬのに、なんで価値なんてもんがありえるんか。みんなが価値なんてもんがあるかのように振る舞っているからでしかない。ほんとうの価値なんてもんはなくても、「かのように」さえあれば世間は回る。それでおまえらはみんな平気な顔してる。意味ありげに、なかみありげに。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/678_22884.html

 でも、パトリック・ベイトマンはそれを受け容れない。

 「そんならどう思う。」
 「どうとも思わずにいる。」
 「思わずにいられるか。」

 『アメリカン・サイコ』には問答はない。かろうじて問答に(なにか「そのもの」といったようなものに)付きあおうとした・突きあわせようとしたジーンを、パトリック・ベイトマンはみずから拒絶してしまう。パトリック・ベイトマンはただそこにいる。「思わずにいられるか」に立っている。
 『アメリカン・サイコ』は吐き気を催す邪悪による『ファイト・クラブ』であり『偽物協会』なんやと思う。徹頭徹尾孤独で、救いの手すら自分から断ち切って、そのかわりに、論理哲学論考的(あるいは『存在と時間』的)現実にぶちあたり、悪しき意志によって世界を変えることを意志する。あんだけ寄り沿おうとしてた世間に、もうおもねようとはしない。パトリック・ベイトマンは救われる準備ができていない。すくわれて辿りつくようなどこかなどというものは、パトリック・ベイトマンにとっては存在しない。パトリック・ベイトマンは世界世間なるもののなかみのからっぽさを知っても、痛みがあることから逃げない。逃げられない。孤独であるということから目を背けず、痛みのところで、それがある場所で、それがあるということに、立ち止まる。
 その意志はとんでもなくひとりよがりで、どうしようもなく邪悪やけど、それでもその「痛み」だけはほんもんやと気づき、それを思い知らせることを誓う。そのさま。そこには意味もなかみもカタルシスもない。純粋な痛み、純粋なしたたかさ。だから泣ける。震える。現実が圧倒的にそうであるということだけがあって、最後に残された選択肢、意志。

 パトリック・ベイトマンはわたしであったかもしれないしあなたでもあったかもしれない。なんにせよこたえは変わらない。おまえらにこの痛みを思い知らせてやる。この上なくひとりよがりで、それなのに素朴にひとを前提する、意志。

 善き意志につけ悪しき意志につけ、それが世界を変化させるとき、それは世界の事実を変えるのではない。変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。悪しき意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。


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