長生きしたい

 人類史の三大事件(発明)、自分で選ぶなら火・文字・農耕かな、と思う。定住・宗教・車輪・縄あたりも捨てがたい(特に定住は農耕とどっちがどっちなんやみたいなこともある)。
 羅針盤も印刷も火薬も、法律も飛行機もインターネットも、そういうのと比べると弱いと思う。まあそれも人間が人間になったのと比べたら弱いけど、すくなくとも今までの科学は何か人間を根本的に変えるようなもんではない気がする。

 で、それはシンギュラリティがきてもやっぱり変わらんと思う。けっきょくひとは見たいもんしか見んと思う。味かって料理かって火かって車かって法律かって国やったって、みんな結局どういうことなんかはわかってないと思う。でもそれを使ってる、それに支配されてる、そのもとで生きてる。
 技術・科学・機械が人間より上んなってもそれだけではなんも変わらん気がする。みかけは変わっても結局ひとはひとやろし、そこでのひとたちもそれを見る我々も、見たいもんを見てるだけやろう。

 ただ、技術がすごい進んでそういう「ひと」じたいを変えられるようんなったらそれはすごいと思う。
 脳容量増設とか不老不死とかはそんな大したことんならなそうやけど、たとえばひとの同一性が人格の連続性(同起源性)と同質性(同機能性・同内容性)とに切り分けられるようんなったりして、それぞれを勝手にいじったりできるようんなったり。今の我々はぼーっとしながら車を運転できるけど、それができんようんなったり、そもそも「道」という概念、「道に沿って車を走らせる」という概念を持ち得んようなものんなったり。あるいはもっと、特定の概念を持ってる状態と持ち得ん状態とを行き来できるようんなったり。
 そういうのはすごいなーと思う。そういうのは見てみたい、やってみたい、なってみたい。そのために長生きしたいなとは思う。

 「今」にしろ「我」にしろ、どうしても利用可能なものをベースに考えてしまうっていうのはある、絶対。独今論・独我論がありならまったく同じように独過去論・独未来論・独神論・独他者論があってもいいはずなのに、そういう考えかたにはあんまりならない。あるいは、そういうふうに時間とか意識(超意識)というものを考えてしまってるということ。

 動物でも珪素生物でも宇宙人でもなんでもいいけど、ちがったふうに見てみたい。ちがったふうに考えてみたい。そうした先でこの世界この宇宙ってもんがどうなってるんか(あるいはそんなもんはないんか)を知りたい。個も我も無も時間もなく宇宙を見れるんやったら見てみたい。それが死んでるのとどう違うんかも気になる。

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