世界は成立しているコトガラの総体である

 鳴鹿堰でぼーっとしてたら論考的気分がわかった気がした。木とか、山とか、川とか、水とか、風とか、鳥とか、橋とか、河原とか、そういうものの来歴。いまそうあるってだけでなくて、こうあってもおかしくなかった、こうなるならこうなる、っていう傾向・可能性。そういうもんの総体がこの世界なんやな的アニミズム的気分。

 この世界のモノ・コトガラは、意識ある観察者の有無にかかわらず「こうだったからこう」「こうでなかったからこうでない」っていう傾向・可能性をもったものとしてある。
 そういう意味での来歴・「として性」は意識・志向性にかかわらずある。あるいは、として性が志向性にとって必要条件であると考えるなら、モノ・コトガラにも志向性はある。

 この世界が仮に神的存在がつくってる人形劇やったとする。クレイアニメのほうがわかりやすいかもしれんけど、アニメは製作中・撮影中と上映中とが別なのでややこしい。人形劇やとする。神的存在にとって意識は観察可能なもので自在に操れるものでもあるとする。世界のモノはたとえばわれわれが物理法則と呼ばれるようなものに則って動いてるようにわれわれの意識には見えてるけど、実際(神的視点の)には神的存在が糸ひいたりして動かしてる。もちろんわれわれのこの意識も。われわれはこの世界がたとえば1億分前にできたもんやと思ってるとする。でも神的実際には神的5分前に始まった劇である。神的存在が、てきとうに材料集めて、てきとうにわれわれ的筋が通るような設定で、始めた。そこらの木もたとえばわれわれ的1万分前から生えてるとわれわれは思ってるけど、実際は神的5分前にてきとうにわれわれ的にそれらしく用意されたもんである。このとき、「この木は1万年前から生えてるもんである」っていうわれわれの信念は真なんか偽なんか。

 色というのは客観的な性質ではない、世界には客観的には色などというものはついていない、というのはまあ客観的に真やといえるやろう。他方、「わたしにとって世界は色がついてみえてる」というのもまあ客観的に真やといえるやろう。ふたつの命題は別のもんであって、わたしにとって世界は色がついてみえてるっていうのが真になるためにはそれ用の過程が必要で、実際にそれ用の過程があるなら命題は真になる。

 おなじように、「われわれにとって「この木は1万年前から生えてるもんである」という信念は真である」はまあ真やろう。われわれ的意識にとってそういうもんとしてみえてるならそれは真でいいと思う。われわれにとってこの「われわれにとって」っていうカッコは外せんしそんなこと考える必要もない。なんといっても世界はあるんやで。神的世界には物理法則も無数にパターンがあって、このわれわれ人形劇もある瞬間aには神的物理法則aに則って動いてて、またある瞬間bには神的物理法則bに則って動いてて、でもわれわれは一貫した物理法則があると信じつづけてるとする。神的目線ではわれわれが一貫した物理法則があると信じてることは偽であるとしても、「われわれにとって「われわれの世界には一貫した物理法則があり、どんな瞬間でも世界はそれに則って動いてる」という信念は真である」はまあ真やろう。
 神的実際にモノやコトガラがどう配置され動かされたもんであっても、われわれにとって世界のモノ・コトガラはそれ自身の来歴をもったそういうもんとして存在してる。で、それは劇にわれわれがでてきてないときでもそうやと考えることができる。「もしわれわれがかくかくしかじかこういうふうに存在してたなら」っていう仮定法のもとでそうなる、と。

 というのがわれわれの(正しい)世界観やと思う。(神的)本当にわれわれの世界が(神的)5分前に誕生したもんやとして、そこの木が神的5分前にてきとうに用意されたもんやとしても、それがなんやっていうんや。かんけいない。それはそういうもんとしてある。神的存在がわれわれをだまそうとしてそうしたんやとしても、実際にはだまされるべき意識がまだ作られてすらいないとしても。神的5分前に用意されたっていうのとわれわれ的1万年前から生えてたっていうのとで何がちがうんや。「世界に色がない」っていうのと「この世界が色ついてみえる」っていうのと何がちがうんや。それ用の過程があるだけや。それ用の過程があるなら、「われわれにとって」っていうカッコは必要ない。だから、けっきょくのところ、世界っていうのは、来歴(可能性・傾向)をもった、そういうものとしてあるコトガラの総体なんやと思う。

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