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ゴミひろい

1人5個ずつゴミを拾いましょう―。

小学校の教室で、帰りの会の終わり際に時たま担任の先生が言っていた。

避難訓練だか何だかで、放課後の「掃除当番による掃除」がなされないことの代替措置だったと思う。

「先生」という権力はすさまじいもので、クラスのやんちゃな”男子”たちも文字通り総動員でことにあたっていた。

そう、「見られている」と、ちゃんとやるのだ。

こんな断片的なことを思い出したのは先日、ある報道に触れたからだ。

ある国際大会での日本人サポーターの自主的な清掃が称賛されているようだ。

この手の報道は毎回といっていいほどなされる。

事実、上の引用記事を検索している途中、過去に開催された同じ大会での振る舞いが同じように「称賛」されたとする記事にあたった。

この国際大会は4年に1度開かれるもので、そのたびにこのような様子が報道される。身近な、親近感のあるかたちでのナショナリズムを感じる頻度として、4年はちょうどいいのかもしれない。

:ブラジルのメディアでは、この行為は「極東に古くからある”お掃除”と呼ばれる文化」だともしているようだ。「お掃除」がどれくらい「古く」からあるかは検証が必要であろう。それこそ「創られた伝統」の可能性も大いにある。しかし、今回の記事ではそれを問題とはしない。:

この行為をおこなった人たちを責めたり、貶めたりする意図は一切ないし、私だって自分の飲んだ飲み物の空き容器くらい放置することなく処分するだろうとは思う。

しかしその一方で、このような指摘もある。

なるほど。開催国のことは詳しくはないが、この舛添氏の言葉を信用するならば、確かにそれは清掃を生業にしている人の「仕事」を奪う「余計なお世話」になるだろう。

自文化の押しつけは、人を殺すことにもなりかねない。

大げさな話ではない。

「日本人はきれい好き」
「日本人は時間を守る」
「日本人は味噌汁が好き」
「日本人は勤勉だ」

すべて聞き飽きた、そして使い古された、安っぽいステレオタイプである。

「まだこんなこと言う人いるんだ」と毎回感動すら覚える。

ここで私は、〈きれい好きで時間を守る味噌汁が好きな勤勉な日本人〉の一人としてカウントされることを拒否する。

そして、同様に私の周りの「日本人」たちにも、部屋が汚い・時間にルーズ・味噌汁は酒を飲んだ後にしか飲まない・コツコツ努力なんてできない人のほうがむしろ多い。私の周りに「日本人」はほとんどいないということなのか。滑稽な話だ。

仕事帰りに、某ターミナル駅の西口周辺を歩くことがある。

夜の授業が終わり、疲れた身体とロングコートの裾をひきずって歩いていると、特に週末に地獄のような光景を目にする。

酔っぱらって大声で騒ぎながら駅に向かう人、酒を飲みすぎて道に座り込んで動かない人、歩きたばこをする人、マスクもなしに片っ端から声をかける違法客引き、そして、彼・彼女らによってポイ捨てされた無数のゴミだ。

特に緊急事態宣言中の”路上飲み”以降、ひどくなったような気がする。

そんなある日の帰り道、その人混みのなかである人物の姿を認めた。

ゴミ袋を複数持ち、大きなトングで空き缶・空き瓶・吸い殻を拾っている若い男性だった。

ひたむきに、たった一人で無数のゴミを回収していた。

彼のことを称賛する記事は、まだ、ない。


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