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あなたのことを、つれづれに No.2

No.2 足立さん

 控えめな照明の一室で、そわそわと落ち着かない気持ちで椅子に腰かけた。扉を開けて入ってきたのは、無意識に思い描いていた「ホテルスパのチーフ」を体現したような人だった。外資系ホテルのあん摩マッサージ指圧師の求人で、私の面接担当者が足立さんだった。

 当時、東洋と西洋の療法や美容法をコンセプトにしていたスパで、足立さんは鍼灸師として活躍しながらスパ部門チーフとして全体をまとめていた。足立さんを指名するゲストは鍼灸師としての確かな知識と技術に加えて、ホテルスパという日常から離れた空間に似合う洗練された所作と優雅さにも価値を置いていたに違いない。採用後、東洋医学のみならずホテルスパの先輩としても、足立さんの振る舞いは私のお手本となった。
 鍼灸、指圧と同じ東洋医学の部門のためゲストが重なることも多く、足立さんの問診や施術方針の説明を間近で見る機会がよくあった。言葉の選び方、目線、タオルワーク、その一つ一つにゲストへの配慮が込められていて、「自分は大切にされている」と感じさせる説得力があった。また、老舗のお香店でスパに似合う香りを選んだり、四季折々に季節をあしらった造花を飾ったり、ゲストの目を楽しませる空間演出にも力を入れていた。

 そんな仕事熱心な足立さんは、休憩中には違う顔を見せた。ある日、真面目な顔で「左京さん、私ラクダが好きすぎて、いつかラクダの飼育員になるかもしれん」と語りかけられたので「アラブ首長国連邦の求人サイトなら見つかるかもしれませんよ」と答えた。別の日、将来のキャリアプランの話になり「よく東アジアの人に間違われるので、いっそチベットに行ってみようかと思うんです」と答えたら、会話はいつの間にか「左京さんは将来チベットで婚活するんだね」と結論づいていた。いつも足立さんは淡々と冗談を言い、私は真面目におどけてみせるので、休憩中の会話はいつも予測不可能な方向に広がっていった。

 夜から雪が降り続いた翌朝、出勤した足立さんは「昨日の帰り道、凍結した山道で車が回転して崖から滑り落ちるとこやった」と何事もない様子で話し、私の頭をくるくると回転する車がよぎった。また過去のイギリス旅行の話題が出て「そういえば、駅で突然知らない男の人に追いかけられたわ」と言う。どうしたのかと尋ねると「走って逃げた」とさらりと答えが返ってきて、異国の地で追いかけっこする足立さんの姿が浮かんだ。その日、足立さんはたくましくて運が強い、と私は心のメモに書き加えた。

 足立さんは英語に加えて、ポルトガル語、韓国語が使えるマルチリンガルだ。スパを退職後、ご夫君としばらくの間ポルトガルで暮らし、モロッコを訪れた際は念願のラクダに乗った写真が送られてきたけれど、まだラクダの飼育員になったという話は聞いていない。
 足立さんと同じ職場で働けたことは指圧師として、一人の女性として学ぶことが多くあり、同時にあの冗談とも本気ともつかない雑談の時間をときおり懐かしく思い出している。

(2021.2.1 左京ゆり)

足立沙瑛子
鍼灸師/外資系ホテル人事部所属
元スパ部門チーフ

※この記事は自分のWebサイトからnoteに転載したものです。記載内容は2021年時点のものとなります。

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