なぜアッシュは死んだのか

BANAFISHの舞台が千穐楽を迎えて、ほぼひと月がたとうとしています。スロースターターも極まれりですが、舞台と原作の感想や考察をいくつか、書いてみようかと思います。

原作ファンの中には、舞台化・アニメ化に否定的な人もいます。特に舞台は生身の人間が演じるので、イメージを損なわれたくないという気持ちは理解できます。自分は、推しが出演するということで初めから期待していたし(原作ファンの感情を思うと不安も…) 新しいBANANAFISHに出会えることが楽しみでした。そして、舞台のおかげで、10年ぶりくらいに原作を読み返して、 やはり名作という思いを深くしました。新しい刺激は、やはりいいものだと思います。

さて、タイトルですが。「なぜ生きようとしなかったのか」の方が正確かもしれません。

あれは、衝撃的なラストでした。 その昔、連載をリアルタイムで追っていたときも、アッシュが助かる努力をしなかったことに疑問を感じたものです。ラオと2人して「助からない」と言い合っていましたが、彼らは医学の専門家ではありません。人を殺したり殺されかけたりという経験からものを言っていたにせよ、絶対ということはないはず。

そもそもアッシュについては、図書館まで歩いていけたのなら、席につくのではなく、受付で助けを求めることもできました。口がきけなくても、血まみれな腹をさらして人前に立てば、大騒ぎになって誰かが救急車を呼んだでしょう。アメリカ在住の経験がありますが、あちらでは、銃撃に対する備えや危難にあっている人への救護は、日本よりずっと素早く手厚いのです。

アッシュは、似たような傷をオーサー戦で負っています。戦闘態勢だったあのときと、油断して刺された今回では傷の深さが違うでしょうが、1%でも生存の可能性があれば、彼はあきらめるような人ではなかったと思います。ではなぜ、助けを求めるよりも座して死を選んだのか?

ひとつは、神との契約を果たすため。 新約聖書などの「約」は、約束より厳格な契約という意味です。聖書は、人間が神と結んだ契約の書であるということなのです。 英二が死にかけたとき、アッシュははっきり「神様」と呼び掛けて祈りました。「英二の代わりに俺を」と。 そして、英二は生還しました。かなり厳しい状況だったはずなのに、日本に帰国できるまでに回復したのです。神の恩寵と言えましょう。

ラオに刺された瞬間、 アッシュは「神が約束の履行を求めている」と感じたのではないでしょうか。「英二は返したぞ。 代わりにおまえの命を」と。 だとしたら、ここで生きようとあがくことは、神との契約を反故にすることにほかなりません。その場合、英二はどうなるでしょう?  自分が生き延びたら、今度こそ英二を奪われる。 苦痛と混乱した精神の中で、はっきり言語化はできなかったかもしれませんが、アッシュは直感的に「助かってはいけない」と思ってしまったのではないでしょうか。

 そして私は、あれから年を経て大人になり母になった今、もう一つの理由に思い当たりました。成長したシンは、「光の庭」 の中で「あんたは永遠に英二を手に入れた」と呟きます。それは死者の特権と言っていい。生きていれば、決裂することも飽きることもある。でも死者と生者の間には、もうそんなことは起こりません。

そして アッシュは、死ぬことで、もう二度と、「英二を失う」ことに怯えなくてもよくなったのです。生きている限り、アッシュは英二の身の安全を心配し続けねばならなかったでしょう。愛のきわまるところ、最大の恐怖は、愛する者に先立たれることだと思います。自分が先に死ねば、けっして英二の死を見ることはない。その安堵こそ、アッシュに安息のほほえみをもたらしたのかもしれません。

アッシュには、遺された英二の苦しみ悲しみを思いやってほしかった、とは思いますが…愛とはエゴそのものなのですね。   

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