恥をかくよ。

小説を書くようになってから、小説を読むようになった。知らない言葉をなんとなく理解したつもりでいた。
その言葉が脳のすみっこに残っていたようで、会話をしている時に、ぽろりとこぼれ落ちた。
意味が違うよ、と注意をされることがたびたびあった。

私は無知だ。
難しい言葉を知らないし、小説に出てくるような音楽や映画の名前や、人物が誰なのかわからない。調べずにそのまま読み進める。
だから、文章を飾りつけることができない。

純文学は芸術だという。
いまだに、正しい日本語が使えない私に、言葉で人の心を動かすことなど不可能ではないかと思った。

Twitterを始めてから、自分は本当に馬鹿だなと実感することが増えた。
知らない言葉は辞書で調べた。しかし、数時間経てば忘れている。間違えた使い方をして、正しい使い方を教えてもらう。また間違える。呆れられる。その繰り返しだ。

純文学の新人賞を受賞している方々は、頭のいい大学に出ていることが多い。たくさん勉強してきたすごい人たち。努力をしてきた人たち。
専門的な知識がある人たち。人生経験が豊富な人たち。幼い頃から読書をしてきた人たち。
カフカやドストエフスキーに当たり前のように触れてきた人たち。

私の唯一の武器は「私のようで私ではないもの」が書けることだと思う。私は、文章を装飾はできないけれど、自分の人生に嘘を装飾するのは得意だ。父が死んだら祝杯を、なんて嘘だらけで、noteに書いていた父性もどこが本当でどこが嘘なのかはわからないように書いた。
最近、私小説的なものを書くことを勧められることが増えた。

ちゃんと調べてから口に出さないと、恥をかくよ。とよく言われる。
私より頭のいい人はたくさんいる。
自分より無知な人に、馬鹿にされてもなんにも気にならないのに、自分より頭のいい人に馬鹿にされると落ち込む。
でも、知らないことは知らないから教えて下さい、と言うようにしている。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。

しかし、限度がある。
たとえば、五月の東京文学フリマで寄稿させていただいたアンソロジー「TROIGIE」。
三人でタイトル案を考えている時に、「トロワジー」が出た。私は意味がわからなかった。素直に聞いた。
「アンドゥトロワのトロワだよ」
と、親切に教えてくれた。
意味がわからなかったけれど、これ以上聞いたら呆れられると思って、ネットで調べた。このエピソードを聞いただけで、これを読んでいる人は、私が無知だってことを再認識するだろう。

馬鹿を直そうと思った。
その時に、とある大学の社会人コースがあると教えてもらった。海外の文学についてだった。
私は運良く、どのようなものなのか教えてもらうことができた。
何一つ意味がわからなかった。
夫に一つ一つ聞いていると、少しだけわかった。夫は、大学で理系の学科にいたのに、私よりずっと言葉を知っているし英語もわかる。

私は高校時代寝る間も惜しんで勉強したのに英語がわからない。日本語でもいいと言ってもらえたのに、日本語も知らない国の言葉に思える。
夫は、勉強していけば大丈夫だよと言った。私は恥をかくだけだと思った。
それでも恥をかきに行こうと思っていた。
しかし、そのタイミングで、やりたいことができて、そちらを優先することにした。

最終候補になった次の年は一次落ちだった。あれは、運が良かった。もうどれだけ読書をしても国語の教科書で日本語を勉強しても無駄だと思った。だから、その翌年に三次通過をしたときはびっくりした。努力って実るんだなって。受賞していないのに実るって思うのはおかしいのかもしれないけれど。

最近は、いろんな人の才能(その人が努力してきたこと、見てきたものを才能と言うことにしている)に触れるたびに、真似をしようとして失敗する。自分の長所を伸ばすべきなのに、別の人の価値観を書こうとしたり、文章を装飾する努力をしてしまう。そうしたら、どう書いたらいいのかわからなくなってきた。
なぜ、あの人が受賞しないのだろう?と思う人はTwitterに数名いる。Twitterで関わりのない人にもすごい人はたくさんいる。

私は恥をかいてきた。これからもたくさんの恥をかくのだと思う。恥をかかないように言葉を吐く前にその意味やイントネーションを調べなきゃいけない。
私は目の前にいる人が、私を諦める瞬間をたくさん見てきた。あ、この人馬鹿だ。会話が通じない、って顔。

私はその顔を人に向けたことがあった。
メールで漢字や二つ漢字が並んだやつ(おそらく熟語)を使わないでと言われたとき、頭が固いって頭突きが強いってこと?と聞かれたとき、分度器の使い方がわからないと言われたとき、九九がわからないと言われたとき。
私は、ひらがなだらけのメールを送って、頭が固いに対しては笑顔で誤魔化した。分度器のときはやり方を教えた。九九の時は天然だね、と返した。

あの頃の私が持っていた疲れが、今私の周りにいる人たちが持っていると思った。
私は、周りを疲れさせたくなかった。
でも頭のいい人が好きだ。私を馬鹿にしない人限定だけど。いろんなことを知っていて、いろんなことを教えてくれる人がいたら、飛びついてしまう。憧れるし、学べることがたくさんある。仲良くしたいと思う。でも、うまくいかない。どうしよう。
そうしている間に、友達を失い、小説が書けなくなった。私は大学ではなくカウンセリングに通うことになった。

私の現在の感情の揺れの根本は学歴コンプレックスが原因だったらしい。もっと別のところにあると思っていたので、カウンセラーに言われてびっくりした。
自信を持つことで、私はもっと成長ができる、らしい。そのためにいろんな話をする。正直、自分の過去をたらたら話すのは疲れる。(その療法をした後は、疲れるものらしい)けれど、これで変われるなら変わりたいと思う。
ゆるゆるやっていきます。

とても長い文章を読んでくださりありがとうございます。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?