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9月24日のマザコン17

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夕方、帰宅。
私もかなり精神がグラついていて、不安や焦りや悲しさでウワーーっとなりそうだったので、デパスを飲む。
デパスは私がわかばさんを受診する時に出してもらっている、頓服(いつでも必要な時に飲む)の抗不安薬だ。デパスは依存性がある薬だそうなので、気をつけてここぞという時しか飲まないようにしている。
正直、ここぞという時に飲んだところで効いている感じはあんまりないのだが、プラシーボ効果もありそうなので気休めに飲むのだ。「効かないけどプラシーボ効果を期待して飲む薬」に果たしてプラシーボ効果が現れるのかどうかは不明であるが。
リュックの中の薬用布小袋から錠剤を出してこっそり飲んだところ、行ったり来たり歩き回っている母がたまたま来た時に見つかってしまい、「あっ、ツヨくんも薬飲んでるじゃん!!」とツッコまれてしまった。
母は何日かおきに「ツヨくんは薬飲んでるの?」と聞いてきて、そのたびに私は「どこも悪いところないから、飲んでないよ」と答えている。母は自分のことはさて置き、私が体を悪くしていないか心配でしょうがないのだ。
デパスを見つかってしまった私はとっさに「これは薬じゃなくて、ビオフェルミンだよ! 整腸剤だから、ヨーグルトみたいなもの!」と言い訳をすると、聞いて母は「ああそう」とすんなり安心していた。

その後、方向性としては、明日入院をするということで母も納得はしてくれた。
始め、夕食で一緒にテーブルについた時には、また不安妄想モードになって金がないとか入院したってもう治らないとかワーワー言い出した。
私がいつものように「うちは入院費くらい貯金で払えるから大丈夫だよ」と諭すと、「あんた銀行のお金の出し方なんてわからないでしょう! 入院の手続きも一人でやったことないでしょ!? ツヨくんはなんにもできないじゃん! 洗濯だってできないでしょう! うちのこともなんにも知らないんだから!」と激しく責められた。
私ももう感情が壊れかけていて、泣く1歩手前になりながら「知らないけどしょうがないじゃん! もうそれしかないんだから!」と反論した。すると私の「ぶわーっと泣き出す1秒前」という雰囲気を見て、母は慌てた様子で「あっ、ごめん、ごめん……!」と謝ってくれたのだった。
心を重く病んでいても、まだ母は子供を泣き止ませるためにがんばってくれるのだ。
このやり取りで、母は入院する気になってくれたようだった。

それから母は2階の部屋へ行くと、入院に必要な洋服、下着とかタオルなどを自分で用意して、名前を記入し出した。
入院となると持ち物には全部ペンで名前を書かないといけない。その他にもパーカーみたいなヒモがついている服はダメだったり(ヒモを取り外して首を吊るかもしれないから)、ハサミや刃物類も一切禁止だったりと、精神科の入院にはいろいろ特殊なルールがある。母はごく最近父の精神科入院の世話をしていたので(昔は自分も入っていたし)、そのへんはよくわかっているのだ。
父はボケっとしていてなにも動こうとしないので、私だけ一緒に2階に上がり、なにも知らない息子ではあるがなにかしら手伝いをしようと畳の上、母の隣に座った。

いざとなったら文句も封印し、自分でせっせと衣服にマジックで名前を書いている母を見て、私はまた胸が潰れそうな悲しさに襲われた。
母はずっと、「二度とあそこには戻りたくない」と言っていたのだ。
KM病院から退院して、6年以上のあいだ母は元通りの明るくて活動的な母に戻っていた。しかし折に触れて、過去の入院を振り返り「あんな経験だけはもう絶対したくない」とよく言っていたのである。「だからもう二度とあんなことにならないように、がんばって散歩するし、ストレスを貯めないようにする」と、それが母の口癖であった。
KM病院は精神科の病院としてはとてもいいところだと思う。私は7年前の母の入院後に、心配になってわかば先生と、もう一箇所浜松で評判の良い精神科のクリニックに行きそこの先生に、「KM病院って良い病院でしょうか?」と尋ねたことがある。
たしかわかば先生とはその時が私の初診で初対面であった。お二方とも、「あそこはすごくいいところですよ」と、取り繕っている感じもまったくせずに言ってくれた。それで私は胸をなで下ろしたものだ。
ただ、病院としては良い病院でも、それでも「精神科」というところに入院するというのは大変なことだ。まず長い間家に帰れなくなってしまうし、同じ病棟にいる患者さんは意味なく叫び出す人やブツブツひとり言が止まらない人、ずっと泣いている人や遠くを見ながら1日中歩き回っている人など……、うちの母から見れば「とても怖い人たち」になる。私だって面会に行った時にそういう人を見て「うわ、怖い……」と思ったくらいだ。
だから、良い病院か悪い病院かということではなく、「精神科の病棟に入る」ということが、なおさら一度経験している母にとっては恐ろしく、耐え難いことなのだ。
そんな耐え難いほどの嫌なところに、私は自分の親を入れようとしている。

こんな事態になったのは、私のせいだと思った。
先ほどわかばクリニックにいる時に、不動産屋からスマホに着信があった。後でかけ直したところ、日曜日に内見をして申し込んでいた部屋の審査が通ったという連絡であった。実家から歩いてすぐのところに、私は自分用の部屋を確保できたのだ。
後悔の気持ちしかない。
どうせこっちに住むことになるのなら、なぜもっと早く、せめて1ヶ月前にその決断をできなかったのか。
私は最悪の場合は親がこうなるかもしれないと、そうなったら自分が浜松の実家近くに住むことになるかもしれないと、東京にいた時にも心の片隅で思っていたのだ。ただあまりにも考えたくもないことで、その考えに向き合うことを避け続けていたのだ。
もし、そこから目を背けず、ちゃんと向き合っていれば。父の退院に向けて先手を打ち、僕も近くに引っ越してこれからは一緒にお父さんの相手をするよと、病院にも買い物にも連れて行くよと、母が元気なうちに伝え、実行することができていたら。どれだけ母のストレスを軽くしてあげられただろう。
どうせここに家を借りる私が、たった1ヶ月早くそれを行っていれば、母の頭を狂わせずに済み、精神病棟に母を押し込めずに済んだのだ。
私の、嫌なことから逃げ続ける性質が、家族をこんなにしてしまったのだ。

私は言葉を振り絞り、ごめんねと、母に言った。
すると母は「こっちこそごめんねだよ」と言った。
会話が成り立つ。
それからいくつか言葉を交わしたが、私も心がいっぱいいっぱいで、なにを話したかはっきりとは記憶が残っていない。ただ、ひとつよく覚えているのは、私が「僕がもっと早く帰って来ればよかったのにね」と言ったのに対し、母が強い口調で「ツヨくんには好きなように生きて欲しかったの!」と返したことだ。
そう、ずっと母はそういう態度であった。うつ病を再発し、頭がおかしくなるまで母は、1人ですべてのストレスを背負っていたのだ。私に負担をかけないために、これほどの状態になるまで弱音を吐かず、私に知らせもせず1人で耐えていたのだ。
私はまたなにも喋れなくなった。ただ、黙って母の肩を揉むと、母は「ツヨくんの手は温かいねえ」と喜んでくれた。
ひたすら苦しい。私の人生の中で、1番や2番に辛いことがここ一週間で毎日のように起きている。私ももう、耐えられない。

両親が寝てから、私はまた車で出かけた。
近所のドラッグストア……杏林堂の小豆餅店に行くともう薬剤師さんがいないというので、はるばる20分ほど運転して別の店舗へ。杏林堂ピーワンプラザ天王店なら、21時まで薬が買えるそうだ。
ギリギリに滑り込んで、杏林堂でロキソニンを買った。
ロキソニンは痛み止め+解熱剤なので、明日の朝早めに飲めば、私の熱は下がるはずだ。
今日わかばクリニックでは37度を出してしまったので、明日はなにがなんでも熱を下げなければいけない。明日はいつも以上に重要な日、病院の入口で私が止められるわけにはいかないのだ。
もちろん、熱だけ下げればいいというものではない。病院で体温を測るのはコロナの感染を疑ってのことで、万が一私が感染している場合は、ロキソニンを飲んでも熱は下がるがウィルスはそのままだ。本来は、正直な体温で臨まなければいけないのだと思う。
しかし、今の私にとっては「明日病院に入れるかどうか」が最も重要で、それ以外はすべてどうでもいいのだ。コロナがどうの……そんなことは知ったことではなく、私がいま心配事に割ける頭のスペースは「母を入院させられるかどうか」で100%隙間なく埋められている。他のことはすべてが些事だ。
杏林堂の後はドンキホーテに寄り、先ほど母が用意できていなかったもの、小さいシャンプーやボディソープ、洗面器やスリッパや歯磨き用のコップなどを買う。………ドンキホーテで買い物をするのに、こんなに楽しくないこともあるんだなあ。
念のため有料のレジ袋もたくさんもらって、23時過ぎに帰宅。

今日はきっと両親と私、家族3人が揃ってこの家で寝られる、最後の日だ。


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