見出し画像

9月24日のマザコン25

ひとつ前の記事を読む  記事一覧


パート23から引き続き、「介護で必要だと思うこと・もの」まとめです。

前回、「介護生活が長くなると、周りから人がいなくなる」というようなことを書いたが、その通りで、社会復帰せずに何年も介護離職状態が続けば、自分の周りからかつての知り合いは全員いなくなると思う。「何年も実家に住んで親の介護をしている無職のおじさん」と、人間界の誰が友達になりたいと思うんだ。

ただ、介護に入った初期の段階では、同年代の友人・知人はいなくなりがちだが(本当につき合いの長い人や関係の深い人たちを除いて)、逆に、そのタイミングでつながりができる人もいる。

私がこうなって感じたのは、「介護生活に入ることをカミングアウトすると、介護経験がない人は去って行きがちで、経験がある人は優しくしてくれる」ということだ。
経験がなくても親身に話を聞いてくれる人もいたし、人によりけりというところはあるが、全体としてはたしかにそういう傾向があると思った。私が去年東京離脱(人生離脱……)と親の錯乱をTwitter等で報告した時、親切に声をかけてくれたりアドバイスをくれたのは、公私どちらかで自分も介護をしている、していた、家族がしていた……という方が多かった。知り合いの中では少数派なはずの、介護経験がある・介護が身近にある人たちだ。

それは、今になって私が「自分と同じ経験は誰にもして欲しくない……!」とガラにもなく本気で思っているのと同じ心の働きによるものかもしれない。

かつての、特に8年前までの私は、「介護? うわーそんな暗いこと想像したくない! 関わりたくもない! 介護してる人と絡むとこっちまで暗くなるよ! 近付かないようにしようっと!」……と、もう「介護」という言葉を聞くのも見るのもイヤ、介護について考えることすら徹底拒否したい人だった。
そんな8流未熟人間だった私ですら、いざ自分が介護のきつさを経験したら、普段の作風とまったく異なる暗い日記を、寝れないくらい激しい肩こりと戦いながらも面会や買い物の合間に「この経験を書いて、介護で苦しむ人を一人でも減らさなければ……」とコツコツ書くようになってしまうのだ。
「人の不幸は蜜の味」なんて言い、他人が失恋したり足の指を柱にぶつけたり、終電を乗り過ごしたり食中毒で4,5日転げ回ったりスピード違反で捕まったり離婚したり、その程度の不幸にあっている他人を見たら、我々は普通「イッヒッヒざまあみろ」と楽しくなるものだ。
しかし介護は、そのレベルではないはず。
例えば、川辺を散歩していて、どこかの子どもが川に落ちて溺れているのを見つけたら、「イッヒッヒざまあみろ」とはさすがに思わず誰もが必死で子どもを助けようとするのではないだろうか? 溺れているのが「家なき子」で安達祐実をイビっていた製缶屋の子ども(小柳ルミ子の娘)や、幼い頃のフクシくんくらい憎たらしい子どもだったとしても、とりあえず溺れていたら誰でも助けようとするはずだ。
介護経験者には、介護生活に陥ることは川に落ちて溺れるのと同じレベルの大事故だという認識があり、だから誰かが介護で苦しむ姿を見たら、助けずにはいられない気持ちになるのかもしれない。

そういう点で、近所の人は優しかった。
近所のおじさんやおばさん。母と仲が良かったり私のことを子どもの頃から知ってくれているというのもあると思うが、近所のおじさんおばさんは、きっと年齢的にみなさん大なり小なり介護の経験があるのだ。うちの家族を知っている上に介護の大変さも知っているから、「困ったことがあったら言ってよ!」とみなさん声をかけてくださったのだと思う。
近所の人でも若めの人は、優しい優しくない以前に、みんな仕事もしているしそれどころじゃないのだよね。自分の生活があるから、近所の人の介護の話に付き合っている暇などない、という具合な気がする。……いや、単純に私が魅力のない人間だから同年代の人が関わってくれないというだけだろうか。それもありそうだ。

そんなことを踏まえて(?)、私がこれから介護に入る人におすすめしたいことは、「キツくなったらとにかく四方八方、誰にでも助けを求める」ということだ。
なにしろどこの誰が自分を助けてくれるのか、ピンポイントで探し出すのはかなり難しいのだ。
介護する側が人数が多かったり、ゆっくりした認知症などの場合はそう慌てる必要もないのだろうが、うちのような、「急に来た介護」の場合。精神の病などで急を要する場合。
これは、本当に恥も外聞も捨ててあらゆる関係者に状況を話し、助けを請うことをおすすめする。
別に恥でも外聞でもないしね。病気は誰のせいでもないし、介護に巻き込まれているということはその人は「ちゃんと逃げずに家族の介護をしようとしている人」なのだから、恥ずべきことなどないのだ。
私の場合は、そうやって必死になって助けを探すということが7年前はできなかった。その時は、やはり家の苦境を外部の人に話すことが恥だと思っていたからだ。家族揃って、精神科にかかることを恥ずかしいと思っていたくらいだから。そしてなるべく自分たちだけで乗り越えようとしたところ、乗り越えられずに全員うつ病になったのであった。実に良い反面教師だね。

兄弟・姉妹がいるのであれば、「誰か一人だけが介護を担う」のではなく、なんとしても、なにがなんでも兄弟・姉妹全員で団結して立ち向かって欲しい。
姉妹兄弟の誰かが実家に住んでいて誰かは遠くに住んでいる、ということもあろうが、遠いとか仕事があるとか、言ってる場合ではないのだ。家族が溺れているのである。子どもが遠くで溺れていたり、仕事をしている時に子どもが溺れていたら、見捨てるのだろうか? 溺れる人間を助けることよりも仕事が大切だろうか? ましてそれは自分の家族なのだ。
家族の誰かが溺れているのに我関せずで放置してしまったら、やがて溺れる人間が増える。最初の段階で集合していれば兄弟がちょっとずつ力を合わせて一人の溺れ者を引き上げればいいだけなのに、「俺は忙しいから」「私は遠いから」と誰か一人に救助活動を押しつけてしまったら、その一人は大変な苦労をするだけでなく、下手をしたら一緒に溺れる。そうしたら今度は、残された者が倍の溺れる者を助けなければいけなくなるのだ。私のようにな!!
どうせそうなったら、仕事も生活もなにもかも投げ出して駆け付けなければいけなくなるのだ。そして、拷問のような日々に長期間拘束されることになる。最初に協力していれば短期間で済んだのに……。

兄弟姉妹の中には、「自分は忙しくて介護は手伝えない、その代わりお金は出す」というスタンスでいたい人もいると思う。だいたいみんなそれを望むのではないだろうか。
個人的には、それはダメだと思う。
なぜなら、それではとても釣り合わないからだ。
私は、このトラブルに巻き込まれてから「お金を払って済むなら、貯金が全部なくなってもいいから、この生活から解放して欲しい」とずっと思っていた。
私は下級国民だが、低所得者なりに、20年も働いて貯金をしてきたのだ。世間的には少額でも私にとっては大金で全財産、でもその全財産を捧げることで介護問題がなくなって自分が元の人生に戻れるなら、喜んで全財産捨てると、私は本当に思った。
だから介護に関しては、「自分はお金を払うだけで勘弁してもらおうかな」と思っている人がいたら、それは通用しないよと言っておきたい。全員が「お金でなんとかなるならそうしたい」と思っているのだ。
介護の規模感や、額にもよると思うが。そこまで大変ではない介護で、4人兄弟のうち3人が現場を担当しもう一人が1億円出す、とかならお金だけの人も十分役割を果たしている気もする。そこは家族で話し合って合意したならいいのだろうが、ただし最初に全部決めてはいけないと思う。現場を担当する人は、「これくらい金銭の支援をもらえばいいや」と最初に思っても、だんだん「こんなキツいと思わなかった。こんなはした金もらうくらいじゃ全然割に合わない!」となるだろう。そして揉めると思う。お金を払っている方は、介護が未経験であればそのキツさが想像できないので、「これだけ払ってるのにまだ欲しいのか! あいつもとんだ銭ゲバになっちまったな……!」と多分思うことだろう。
介護っていうのは深刻になると殺人や自殺や一家心中まで考えるようになる作業だからね。それを同じ家族なのに誰かに押しつけて自分は蚊帳の外にい続ける、そのために支払う金額が例えば1千万円ではあまりにも安すぎる。いくらなら適正かは、知らない。

お金の話でつなげると、姉妹兄弟で介護の負担度が違ったら、相続でも揉めることになるのではないかと思う。
この点は、私が「一人っ子で良かった」と思っている数少ないことのひとつだ。仮に両親がいくらかの財産を残して亡くなった場合でも、私には遺産相続で争う相手がいないのだ。私は介護も一人なら、相続も一人だ。
これが、遺産があって兄弟姉妹がいて、介護の負担が均等でなかった場合は、まず円満にはいかないだろう……。
前述の通り、「介護をしたことがない人」は、介護の大変さがわからないのだ。子育てなんかも多分そうだろう。人間、ある程度のことまでは想像力で補えても、ある程度を超える程度の事象となると、相当頭が良くなければイメージできない。だから、遺産を法律に則って分割しましょうとなった時に介護をした人は「自分だけ介護で苦しんだのに遺産が均等なんておかしい!」となり、他の兄弟は「なんだと、介護したくらいで遺産を横取りしようとするなこの金の亡者め!」となるのではないか。
法律の上では、例えば5人兄弟のうち一人だけが介護をしたとしても、「5人全員が合意しなければ」、介護をした人間の相続の取り分を増やす、ということはできないらしい(遺言書で指示がある場合は除く)。介護という行為がだいぶ軽んじられているように思える。おそらく相続法を作成した学者は、介護の経験がなかったのではないか。

私は兄弟はいないが介護を経験した身として意見を言うと、もし家族のうちで誰か1人だけが介護をして、他の家族は介護をしていなかったとすれば、遺産は介護をしていた人だけが相続していいと思う。
例えばの話。私は一人で両親の介護をしているわけだが(介護介護と言ってもいずれ病院や施設に任せようとしているわけで、在宅介護を続けている人から見たらあまっちょろい介護かもしれないが)、だが、例えばこのまま時が流れて、両親が亡くなった時に突然、「こんにちは。実は私はあなたの弟です。幼くして施設に預けられましたが、遂に見つけましたよお兄さん!」と、私の弟を名乗る者が現れたとする。
戸籍を調べてみたら、なんで今まで気付かなかったかはわからないがたしかにその男は、私の血の繋がった兄弟だった。……すると、法的には私とその急性弟とは、両親の遺産を半分ずつ相続できることになるのではないか。
そんなこと、到底受け入れられるわけないだろ。
法律がどうした。遺産は全部私がもらう! 私は自分の家にも住めなくなり仕事もできなくなり友達にも会えなくなり、自分のコミュニティを全部失って一度はうつ病になり二度目もうつ病間際になって、社会から孤立しながら泣きながら死ぬ思いで介護をしたのだ。誰もそれをしなかったのならいいが、同じ家族で、私がそれをして、おまえはなにもしなかった。その時に、おまえに遺産を相続できる権利なんて十円分もあるわけないだろう!!! ………と、私は絶対に思うだろう。
私はそれは99.99%あり得ない仮定の話であるが、しかし世の中には実際「介護を担当した人と、なにもやらなかった人の組み合わせの兄弟姉妹」がたくさんいるはずなのだ。その中で介護を担当した方の人は、今の仮定の私と同じことを思っているはずだ。
逆に、私が8年前まで時を遡れて、その時に急性弟が現れて「僕がこれからの介護を全部やるから、遺産は僕が全部もらっていい?」と聞かれたら、即座にOKするだろう。相続を放棄するくらいで介護を免れられるなら、遺産くらい喜んでくれてやる!
まあうちの場合は現実問題、このままじゃ遺産どころか借金が残りそうな気がするけど……。そうなったら、いずれにせよ相続放棄するしかないか……。

結局私がなにを言いたいのかというと、「家族は均等に公平に介護を負担すること」、これを世の人にすすめたいのだ。家族の介護は、血の繋がりや何十年という絆を持つ兄弟や姉妹すら、バラバラにしかねないとても大きくて大事な問題なのだ。……と私は思う。
兄弟がいないのに兄弟の話が思いがけず長くなってしまったので、「とにかく四方八方、誰にでも助けを求める」の話は次章へ続く。


次の記事 9月24日のマザコン26

もし記事を気に入ってくださったら、サポートいただけたら嬉しいです。東京浜松2重生活の交通費、食費に充てさせていただきます。