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9月24日のマザコン24

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前回に引き続き、「介護で必要だと思うこと・もの」まとめです。

「介護」とひと言でいってもいろいろあり、うちの場合は「精神を病んだ両親への対処」で、普通のというか、「寝たきりや重度の認知症の家族を在宅で見る」みたいな世間一般でイメージしそうな介護、とはちょっと違っている。
なのでうちのケースで「介護」という用語を使っていいのかは微妙なのだが、いちいち注釈をつけたり他の言葉で言い換えるのもややこしいので、うちのような精神系のケースも介護と言ってしまうことにする。
ということで、7年前と今回……この日記の日付よりさらに数ヶ月先までの自分の経験を踏まえて、介護について後進の方たちにアドバイスしたいこと(偉そうに)を書きたい。

必要と思うことはいろいろあり、順番に書いていきたいが根本的なことで言えば、介護の問題は「スピード感を持って解決しなければいけない」。これが本当に根本で、基本だと思う。
うちのケースのような、精神の病気が絡む介護の場合だ。これが進行の遅い一般的な認知症……まだ認知症の初期段階で本人の言動も9割方正常、というような場合は、焦らずにじっくり構えて臨んでもいいかもしれない(いいかもしれないし、ダメかもしれない。理由は後述します)。
しかし、うちのような急性のトラブルが発生した時は、時間との戦いだ。そう簡単にはいかないけれど、簡単にはいかない中でも1日でも早く、解決への道筋を立てなければいけない。

トラブルを解決したくない人なんているわけないだろうが、でもこういうトラブルの時に、「先延ばししようとする人」はそこそこいそうな気がする。
あるいは、「先延ばしまでは考えないけど、無理はしないで休み休みがんばろうと考える人」もいそうな気がする。
なにしろ介護をカミングアウトすると周りからかけられる言葉が、「自分を第一に考えて!」とか「あなたが倒れたらおしまいだから、絶対に無理はしないで!」とか「がんばらなくてもいいんだよ☆」とか、そういう優しい励ましの言葉ばかりなのだ。だから、そうだなぁ無理せず自分をいたわりながら進めることが大事だよなぁ、とマイペースで対応しようとする人がいるかもしれない。

しかし私は、そういう励ましの言葉には心から感謝しつつも、ある程度までは、無理しても早く解決できるように必死になる、ということが必要だと考えている。若ければ、1回や2回過労で倒れる覚悟で無理を続けてもいいと思う。
なぜならば、精神の病気というのは(他の病気も同じかな)、1日治療を始めるのが遅くなれば、1日以上、回復が遅くなるからだ。これはまさに好例(悪例、悪霊)として、うちの失敗を見てくれと言いたい。
7年前に母は 1.ストレスが重なって元気がなくなった → 2.一層落ち込みが激しくなり、病的にどんよりした雰囲気になった → 3.言動がおかしくなりウロウロと妄想が始まった という段階で悪化して行った。
もし、あの時「1」の段階で早急に治療を始めていれば、母は入院する必要がなかったのではないかと思う。
実際には、我々家族は「3」になってようやく「これはさすがに精神科に行った方がいいね。浜松に精神科なんてあったっけ」と慌て出す、という愚かな振る舞いを見せていた。その結果、母は1年以上も精神病棟に入ることになってしまったのだ。

そして、ゆっくりしていればその分だけ、家族も弱っていく。
「介護する側が潰れてはいけないから、休み休みやろう」と思ったところで、休養のために家でゴロゴロしていようがゲームをやっていようが、家に病んだ家族がいる限り、刻一刻と介護者の精神は蝕まれていくのだ。ゴロゴロして体力は回復するかもしれないが、精神は回復せずダメージが蓄積していく。
親を(介護の対象が親だとして)入院させたり施設に入れたり、あるいは在宅で介護の認定を受けてヘルパーさんを手配したり……、そういう道筋をつけるまで、介護者(子)は初対面の専門家たちと、暗くて難しい話を何度も何度もしなければいけない。そういうややこしいことを、家では病んだ親の相手をしながら、食べ物も用意しながら、いくつも同時進行で行わなければいけないのだ。
これは、早くやらないと、できなくなる。なるべくトラブルを認識してすぐ、こちらのエネルギーが残っているうちに行動を始めないと、動けなくなる。体力というより、気力の問題だ。のんびりしていたら、人と話すのも無理なくらい精神が削られて無気力になる。布団から出られなくなる。親の足音を聞くだけでビクッ!と恐怖するようになる。そして介護者がうつ病になるのだ。過去の私のように!

それから、体調面以外でも、急がなければいけない理由はいろいろある。
仕事と、お金の話。
私がひとつ他の人と比べてラッキーだったのは、職業が作家(六流だけど)………要するにフリーランスであったという点だ。
フリーランスで、しかもどこかの会社と専属契約などもしていなければ、「出勤」という行為が必要ない。私の場合主な仕事は「原稿を書く」ことと「Podcast(ネットラジオ)を収録・編集する」ことなので、どちらも自宅でできるのだ。
それでも7年前はかなり大きな本の仕事を飛ばしてしまったのだが、幸いというかなんというか、2020年は元々長い旅行に行く計画が直前にコロナでキャンセルになってしまったので、この介護トラブルが起きる前からすでに仕事が飛んでいた(私は旅行作家でもあるので)。だから、今回は仕事のことで迷惑をかける人は最小限で済んだ。
noteを書いたりPodcastを収録したりという作業は自分がやると思ったらやればいい作業なので、しばらくは介護離職していたとしても、状況が改善して心身の余裕を取り戻しさえすれば、再開できる。道具と環境さえあれば。

しかし、これが会社勤めをしている人だったらどうだろう?
うちのような急なトラブルが起きてしまった時に、しかも一人っ子だったり他の兄弟が遠くに住んでいたりするような時に、「仕事があるから帰れないよ」では済まされない。忙しいからそっちでなんとかしてよ、と病気の親を放置してしまったら取り返しのつかない局面に突き進むだけだ。「片方の親はまだ元気だから」と放置しておくと、気付いた時には両親が病気になっているのだ。うちのように!
会社にもいろいろあると思うが、短期間ならともかく、いくら親が病気だからといって、何ヶ月も休暇を取らせてくれる会社はそう多くないのではないか? ある日突然仕事をほっぽり出して職場を離れて地元に戻り、3ヶ月でなんとか親の問題を片付けて、じゃあ来週から復帰できます、となった時に会社はすんなり復職を許可してくれるだろうか?
その人の能力にもよるだろうが、長くかかればかかるほど、職場に戻れる可能性は減ってしまうのではないか。

そして介護離職すれば当然、生活費が稼げなくなる。
病院の診察で「家族の辛さ」はあまり考慮されないように、日本社会も、「介護を受ける人」に対しては介護保険や公的な施設やケアマネージャーさんなど各種支援が用意されているのに、「介護をする側の人間」に対しては、公的な援助はまったくと言っていいほどない。気がする。
まあ介護される人が援助されれば介護する人もその分楽になるので間接的に助けられているのかもしれないが、しかし少なくとも突然介護離職を強いられた介護者が、当面の自分の生活費などを得られる補助金のような仕組みはないと思う。あったら教えて欲しい。こちらまで(私のTwitter)

「介護者を助ける補助金」は、あるべきではないだろうか?
だって、コロナ自粛での経済苦に対しては、定額給付金や持続化給付金が支給されたではないか。
コロナの自粛や緊急事態の影響で仕事がなくなったらそれはもちろん大変なことではあるが、例えばコロナ禍の影響をあまり受けない職種(運輸関係とかコンビニとか)でアルバイトをしようと思えば、できないことはないのではないか?
ところが介護離職の場合は、働くこと自体ができなくなるのだ。親を見ることで精一杯、極端な場合は今日1日をどうやって乗り越えるかでいっぱいいっぱい、さらに自分も心を病んだりして、とても仕事どころではないのだ。
それなのにコロナの方は給付金が出て、介護離職をした人にはなんの給付金も補助金もなくほったらかしにされるというのは、残酷過ぎる。
介護で仕事をなくした人にこそ、給付金を出すべきだ。突然仕事も自分の生活も失って必死で病気の親の面倒を見ているような人間に対して、せめて生活費の心配くらいさせないであげられるような社会に、日本はなれないのか? 
それができないのなら、もっと医療の水準を落として、意図的に日本の平均寿命を下げるべきだ。なんで自分の力で生きられなくなった年寄りがヨレヨレと長く生きるために、若い人間が時間もお金も希望も失って、辛い生活を送らなければいけないんだ。

そして、もうひとつ、介護生活からは一刻も早く抜け出なければいけない、理由がある。
介護暮らしは、長くなればなるほど、孤立していく。周りから、人がいなくなるのだ。
これはまさに私が今、身に染みて感じ、焦っていることである。
介護が原因で地元に帰って、時が経てば経つほど、自分への周りの関心が薄らいでいっているのを感じる。例えば、今までは何気ないやり取りを頻繁にしていた友人からの、連絡の頻度が目に見えて減ってきたり。去年までは飲みに誘うとすぐ空きスケジュールを返してくれたような友人が、何日も返事をくれなくなったり。返事をくれても、私と会うことに乗り気でない雰囲気がありありと伝わって来たり。
私が個人的に人望がないだけかもしれないが、しかし、元々はとても良い関係性だった人たちなのだ。そういう人たちと、ケンカをしたわけでもないのに、私が介護生活に入ってから明確に距離ができてしまっているのだ。

これは、誰かのせいというわけではない。むしろ必然だと思う。
正直に言えば、逆の立場だったら……仮に私が介護とは無縁の暮らしをしていて、そして介護離職や介護帰省をした友人から連絡が来たら、私もつれない態度を取ってしまったのではないかと思う。
ちょうど私くらいの年齢だと、「まだ介護は始まっていないが、遠からずそういう問題が降りかかってきそうな予感はしている」というくらいの人が多数だと思う。まさに夏以前の、私だ。
だからこそ、みんな少しでも介護の話を避けたいのだ。「親の介護で自分の暮らしが損なわれるなんて絶対にイヤだ……うちはきっと大丈夫なはずだ……少なくともまだしばらくは大丈夫なはずだ……介護の話なんて、聞きたくない考えたくもない……!」という、本当に考えるのもイヤだという介護恐怖症の状態。ヒタヒタと迫っていることをなんとなく感じているだけに、余計にそこから逃げたい。
少なくとも私はそうだった。
そういう時期に、「介護で苦しんでいる友人」が「ごはん食べようよ~話につき合ってくれよ~寂しいんだよ~」、と寄って来たら、みんな逃げたいと思うだろう。そんな露骨なアプローチではないとしても、介護に追われている人と会食すれば、多かれ少なかれ必ず介護の話になるのだ。考えるのもイヤな、介護の話に。
だから、誰が悪いわけでもなく、同年代の仲間が少しずつ離れて行くというのは必然のことだと思っている。
それに、みんなの仲間であった私は、「東京で作家として作品を作っている私」であり、「介護のために実家に戻った無職の男」ではないのだから……。

ただ、それがこの世界の必然だとは思っていても、受け入れるのは辛い。
そもそも一人で介護をするということが、とても孤独な作業なのだ。
ただでさえわかり合える人のいない孤独な日々を生きているのに、時が経つにつれ周りの人たちも離れて行きますます世の中から孤立していく。本当に自分一人だけが世界から取り残された気分になるのだ……。自分という存在が、世界から消えて行く……。

だから、我々は介護生活から少しでも早く抜け出して、自分の人生に戻らなければいけないのだ。
年老いた親のために、子どもが人生を犠牲にしてはいけない。せっかく親に命をもらってこの世に生まれて来たんだ。自分らしく、人生を楽しまなければ親に申し訳ない。ちゃんと自分の人生を生きなければ、命に失礼だ。自分の人生はこの一度しかないんだから。
だから、介護の入口で子として最低限の責任を果たしたなら、もうそれ以上は、自分を犠牲にして長く親の介護を背負う義務なんて、誰にもないと私は思う。

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