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9月24日のマザコン26

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パート23から引き続き、「介護で必要だと思ったこと・もの」まとめです。
ただ、うちの場合の介護は一般的な介護とは少し違っていて、身体ではなく精神面での…… ※以下略

ここまでのまとめは、大体「うちはこれがダメだったので、みなさんは同じ失敗をしないでください」という方向のことを書いていた。我が家を反面教師にして欲しいという気持ちで。
ただ、うちも六流家庭とはいえやることなすこと全部ダメだったわけではなく、「これはうまくやれた」「これがあるおかげで助かった」というものも中にはあった。
これからそういう良かった方のことも書くので、こちらに関しては我が家を前面教師(?)にして、もし参考にできるものがあれば参考にして欲しい。

前回の続きで言えば、「介護でピンチになったら節操なく誰にでも助けを求める」、これは我が家は7年前はできなかったことで、ただしその反省を踏まえて、今回は私はそれをやった。
あちこちの病院に相談に行ったのは病気なんだから当たり前としても、その他には、まず近所の人。母と交流があって私も会ったことがあるような方たちには、私が浜松に帰って来てすぐ電話をかけた。こんな状況になっているので、ご迷惑をかけるかもしれませんが、なにかの時にはお助けくださいと、お願いするとありがたいことに全員の方が「なにかの時の協力」を二つ返事で引き受けてくれた。「遠くの親類より近くの他人」という言葉そのままだ。
あと連絡したのは、私のつながりで、浜松に関連した友人。要するに学生時代(高校まで)の知り合いだ。同郷で私と同じように東京に出て来ている知人や、あるいは浜松に住んでいる知人。ただ、こちらは、どちらかというと素っ気ない返事をもらうことが多かった。別になにをお願いしたわけでもなく、「こういう事情で浜松に帰ることになりました」という報告だけだったのだが、やはり世代的に「介護の足音を感じているだけに1分1秒でも先送りしたい」という介護恐怖症世代なので、私の話に関わるのはイヤそうだったし、私も友人としてこの人たちを巻き込んではいけないなと思った。

個別に連絡したのはそれくらい(あとは親戚とか地域包括支援センターの人とか)なのだが、交友関係については私には珍しく強みがあって、それが「Twitterのフォロワーさんがまあまあ多い」ことだ。
私は根暗で引きこもり体質のためリアルな友達は少ないが、引きこもり体質のためネットを通じての交流は普通の人よりも多く、また本やPodcastという「作品を公開する」仕事に就いているために、SNS……私はインスタもFacebookもほぼ稼働していないためTwitterがメインだが、光栄なことにTwitterでは1万人以上の方にフォローしていただいている。
そこで、私は「恥」の感覚を投げ捨て、早い段階から節操なくTwitterにうちの苦境を赤裸々に書き、困っていることやわからないことについて質問した。そのおかげで、介護で私より先を行っている人(経験者の方)や、仕事で介護に関わっている方などからいろんな助言をいただくことができた。
これが本当に助かった……。
人から直接助言を受けたり意見を聞けたりすると、本やwebサイトで勉強をするより知識がしっかり身につく。本やサイトだとどうしても最大公約数的というか、「大勢の読者に当てはまりそうなこと」の説明をすることになるが、SNSで直接助言をくれる方たちは「うちの状況」という、個別の案件をわかってくれているのだ。
1番大きな利点は、私から「それってどういう意味ですか?」「そこをもう少し詳しくお聞かせください」と聞き返せることだった。
世の中の98%の本に言えることだが、「なにかについて解説した本」は、それについて知識がほぼゼロの読者が読んでも、難解でほぼ理解できない。
著者はその道の専門家なので、著者なりに「素人でもわかるように簡単に書こう」と思ってレベルを落とした文章を書くのだが、そのレベルでも本当の素人から見たらかなり上なのだ。専門家の先生は「さすがにこれくらいの用語は常識として誰でも知っているだろう」と見当違いな判断をして、素人が知らない単語を平気で使う。さらに、専門家の威厳を保つためにもわざと難しい用語を入れてくる。だから、そういう文章を素人が読んでも取り残されることが多いのだ。
しかしSNSでもらったリプライやDMであれば、「それってどういう意味ですか?」と質問ができる。さらに「こういう場合ではどうですか?」と違うシチュエーションを挙げて意見をもらうこともできる。この双方向性。これが、ネットを通じてとはいえ「人」とやり取りをすることの、大きなメリットだ。

私は今回は、Twitterを使い尽くした。
あらゆるトラブルがそうだと思うが介護も「情報戦」という側面があるので、今まで5流6流ながらも作家としてコツコツ活動して、SNSの交流を増やしてきて良かったと思った。SNSがない時代だったらどうなっていただろう?と想像すると、どうにもできず万事休していた気がするので、自分にSNS(Twitter)という武器があったのはとてもラッキーだったと思っている。
余談だが、私がネットで介護状態に入ったことを公表したら、いろんな方から「実はうちもなんです」「私の親も心を病んでいて……」「うちは重度の認知症なんです」「寝たきりの親を介護しています」etc...、と報告をいただいた。
みなさん普段は自身がそういう環境にいることはまったく書いたり話したりしていない方たちだ。
やっぱり末期長寿社会の日本にはそういう家族がたくさんいるんだなあということと同時に、みんな自分が介護で苦しんでいることを公表したら人から敬遠されたり引かれたりすることがなんとなく想像できるから、普段はあんまり言えないのだなあと(全員がそうではないだろうが)、やるせない気持ちになった。

私はSNSが重要な情報源になったが、あまりネットを使わない人はオフラインでのリアルな人間関係があるだろうし、とにかくオンラインにせよオフラインにせよ、「人との繋がり」をなるべく多く持っておくことは大事だと思った。介護のために大事と言えばそうだが、人生におけるトラブルはなんでも人との繋がりによって軽減できる気がする。
だから、介護でなくともいざという時に四方八方に助けを求められるように、普段から人との関わりをしっかり持っておいた方がいい。
私はそれが苦手なタイプで、「深い繋がりを作る」というよりはSNSであさーく広く繋がる、という具合だったがそれでもその繋がりにすごく助けられた。逆に浅く広くが苦手な人は、絆の強い友人を少数作る、でもいいのだと思う。外に知り合いはいないけど家族と親族だけは鉄の団結力を誇る、でもいいと思う。関係性の強さ × 数 という、かけ算の解を大きくできればそれでいいのだ。
友達や仲間はトラブル対策のためだけに作るものではないけれど、それだけではないが、半分くらいはそういう面はあると思う。
男女が結婚すれば「これからは喜びは2倍、悲しみは半分だね」と言うし、結婚式の宣誓の言葉は「病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も……」である。誰かとつき合いを始める時には、楽しい時に一緒に過ごすことを半分、苦しい時に一緒に過ごすことを半分、それをあらかじめ想定して人はつき合う相手を決めるのではないだろうか。

そうして作り上げた人間関係の中でも、ピンチの時に助けてくれる人と助けてくれない人がいるが、誰が助けてくれるのかは、手当たり次第に助けを求めてみないとわからない。
だから、緊急事態が来るまでにできるだけ人との繋がりを持っておいて、緊急事態になったら手当たり次第、四方八方に助けを求める。それが、介護においても最も助かる確率が高くなるやり方ではないかと思う。

それから……、いきなり全然違う話になるが、大事なことをもうひとつ。
介護において私が心底重要だと思ったのは、「お金」だ。
これはSNS以上に、「これがなかったらうちはどうなっていたんだろう……」と想像して身震いすることのひとつだ。

お金は大事である。
「世の中金じゃない!」というセリフは耳障りはいいが、世の中は、金である。介護暮らしに陥って、なおさらそれを痛感した。お金があるかないかで、一度しかない人生が壊れるか立ち直れるかが決まる。お金以外の要素も必要だが、お金が土台である。たとえお金以外の要素が充実していても、お金がなければおしまいなのだ。
何度も書いたが、うちの両親は70代の日本人として平均的な貯金は持っていた。そのおかげで、親が「入院が可能である」という状況になった時に躊躇せず(金銭面では)入院をさせることができた。親に施設に入ってもらわないとこちらの精神と人生が壊れるという時に、いつ入れるかわからない公的な施設ではなく、民間の施設を選択肢に入れることができた。
もっともこの状態が10年も続いたらうちの資産は私の貯金まで含めて枯渇するだろうけど、しかし入院や入所を考える時に「とりあえずしばらくは大丈夫」と言える、数年は耐えられるだけの資産があったことは幸運だった。まずはいったん親に病院や施設に入ってもらい、その間に家族(私しかいないけど)が体勢を立て直せるのだ。そして心身を回復させてから今後の方針を落ち着いて考えることができる。

もしうちに貯金がまったくなく、使える資金は年金がすべてという状態だったら、今回の介護トラブルは「詰み」になっていたと思う。
入院費がなければ、おかしくなった親と私が一緒に暮らさなければいけない。安い特別養護老人ホームに申し込んで、長い順番待ちの期間を一緒に暮らさなければいけない。私が病んだ両親とずっと一緒に暮らすことになっていたら、多分、殺すか心中するかになっていたのではないか。わりと本気でそう思っている。死にはしなかったとしても私も激しく精神を病み、役所の人などに救助される時には廃人のようになっている、という状況になったのではないだろうか。

そのようにお金がなければ私の人生は終わっていたところを、両親の銀行口座に入院や入所に耐えられるだけの残高があったおかげで、私はまだ人生を続行できているのだ。
私は今まで、どちらかというと「お金は使うためにあるものだ」と考える方だった。お金は経済の血液なのだから、使わずに貯めておくのは愚かな行為だと、常々思っていた。
しかし、今回のトラブル……「お金によって人生の破滅を免れる」という経験を経て、少し考えが変わった。
お金は、ある程度は貯めておかなければいけない……。
時として、お金は命に代わるのだ。「お金なんてなくたって、毎日笑って暮らせればそれで幸せだよ!」とかいうセリフは耳障りがいいが、それは違う。場合によっては、お金がなければ介護が必要な両親を入院させられずに、子どもの人生が終わるのだ。そうなった時に誰が笑って暮らせる?
日本の社会には、健康でさえいれば貧乏になってもセーフティネットが用意されているが、健康を失って貧乏になった時には、もはやセーフティネットは存在しない。
でも、生物の世界というのは、本来そういうものかもしれない。

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