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安倍さんの喪失感(後)


前編の続き。


喪失感は、何日も続いた。
私だけでなく、この記事を後編に至るまで読んでくれているみなさんだったら国民として同じ気持ちだったのではないか。
自分は自分で考えるよりはるかに安倍総理に愛着を感じていたのだろう。

それにしても、現実味がないのだよ。
日本の記事では、「安倍元総理、銃殺」。
海外の記事では、「Shinzo Abe Assassinated」。
英語の勉強のため聴いているBBCニュースでも、キャスターは「Japan’s former Prime Minister Shinzo Abe was assassinated」と言っていた。
そんな言葉、今どき使われるの!? しかも日本を舞台にしたニュースで!
「銃殺」とか「assassinated」って、歴史上の出来事か海外のニュースでしか使われない用語じゃないか。なんで日本の最近の記事でそんな言葉が使われているんだっ。そんなこと日本で起こるわけないのに。

ただそのインパクトの巨大さにも関わらず、事件当日は特番だらけだったテレビも次の日はもう通常運転、芸能人が町をぶらぶら歩きながら町の見所を紹介していたり、タレントさんが料理対決をしていたり、芸人さんが仲間にどっきりを仕掛けて大笑いしたりしていた。
ネットの記事や、SNSのタイムラインも徐々にいつもの雑多な景色に復帰して行く。
あんなことがあったのに、こんなにも早く世間は平常に戻ってしまうのか。

とはいえ、社会というのはそういうもの……
なにしろ安倍さんと深い親交のある人たち、例えば岸田さんや閣僚の人たちや銃撃の時に隣にいた佐藤議員や前夜に応援演説を受けた小野田議員など、私の1000倍くらい安倍さんのことを悲しんでいる人たちが胸を張り裂きながら次の日も朝早く起きて選挙運動をしたりメディアの取材を受けたり忙しく飛び回っているのだ。
だから一市民の小物(私)が何をか言わんや、おまえこそさっさと日常に戻れよということではあるが、市民なりになにか区切りが欲しいと思ったので、奈良まで献花に行くことにした。
亡くなった後とはいえせめてなにか敬意を示したく、それで「自分はひとつ敬意を示したのだ」と思えば私も納得して区切りになると思う。

たまたま地元の浜松にいる時だったので、実家の車を借りて日帰りで大和西大寺駅まで行くことにした。現地の花屋さんはカラッポ状態という噂だったので(実際は献花臨戦態勢でたくさん取り揃えられてました)、浜松の花屋さんで花束を調達した。
献花用の花を作ってくれませんか。安倍さんの献花に行くんです。と伝えると「奈良まで行くんですか?」「そうです」「じゃあ私の気持ちも花束に込めます、一緒に持って行ってください」と花屋のおねえさんに言われて、他の歴代総理だったら多分こんな会話は発生しないはずで、やはり安倍さんは多くの日本人にとって特別な人なのだなあということを実感した。
ただ料金をまけてくれた様子はなかったので、花屋のおねえさんの気持ちの分のお花代も私が払うことになった気がする。やや納得がいかない。
でももしかしたらおまけしてくれていたのかも。


7月12日であった。出発してしばらくは車に穴が空くのではないかと思うほどの大雨。高速を走っていてほとんど前が見えないという恐ろしい状態だったので、分岐を何度も間違えて(というか豪雨すぎて周りが見えず私のスキルでは恐くて進路変更できなかった)、4時間近くかかって奈良に着いた。
しかし大和西大寺駅周辺の駐車場がどこもかしこも満満満、ああ日本中からここに人が集まっているのだなあ、と思いつつ空きを探してだいぶウロウロした。

駐車場は南口方面で、現場は北口なのでいったん駅の中を通って移動するのだが、北口の階段を下りるところでもう映像で見たあの風景が目に入ってきて、心がぞわぞわする。


事件から4日後であるが、花を持って歩いている人がそこかしこにいて、献花の列は200mくらい伸びていた。
平日である。火曜日の昼間。
それでも200mの列である。ほとんどの人が私と同じく安倍さんとは会ったこともない、ごく普通の市民・国民の人々であろう。
並んでいる人は高齢世代の方が多いということもなく、むしろ日本の世代分布から考えると平均年齢は若かったと思う。
子どもや学生さんまで、家族あるいは友達と一緒に来ていた。


待ちは20分くらい。
私も一応献花をして手を合わせたのだが、ただ、なにかピンと来ないものはあった。
献花台は、花を置く台でしょう。ただの机と言えば机である。
献花台でも手を合わせつつ、ただ、安倍さんが実際に凶弾に倒れた場所は数m先なので、私としてはそちらの方が真剣に手を合わせるのにふさわしい場所ではないかという気がした。
のでそちらにも。

ここ……。
このガードレールの内側で、演説中に安倍さんは撃たれたのだ。右から3個目の石のところ。ある意味、ここで落命したと言える場所だと思う。
みんな映像を見て知っているので、このガードレールのところで手を合わせている人もたくさんいる。私も献花台よりもこちらの方が感情が高まった。安倍さん、日本のために長く働いてくださってありがとうございました。

映像で何度も見た場所に自分が来てみると、あれは現実の出来事だったんだなあと実感が沸くと思いきや、沸かない。
ごく普通の、日本の街角なのだ。特別な感じはなにもない、駅前の風景である。このなんの変哲もない日本の街角で、数日前に安倍さんが銃撃、暗殺されたなんて具体的に想像が及ばない。
ここで安倍総理が撃たれて倒れて、スタッフの方が「お医者様、看護師の方はいらっしゃいませんか!!」と必死で叫んでいたのだ。
日本史上に永遠に残る事件がたった数日前にここで。コンビニとかショッピングモールとかスタバとかがある現代の風景で、そんな大事件が。

なお私は元総理の「元」をたびたび省いているが、そういう感覚である。
献花に来ている人は、みんな同じような感覚だと思う。安倍総理は元総理ではなく、総理なのである。なにしろ失礼ながら管さんや岸田さんは安倍総理に取って代わるほどの総理というイメージがないから。

安倍さんは日本で最も長く総理大臣をやっていた人だが、私がこんなにショックを受けて、連日大人から子どもまで何百メートルも列を作って献花に訪れるほど多くの人々に愛されているというのは、ただ長くやってたからという理由だけではないと思う。
長いのももちろん理由のひとつだ。
我々は足かけ10年ほど、数えきれないくらい安倍さんの顔を映像でも画像でも繰り返し見ていたはずだ。一人暮らしなら家族よりも安倍さんの顔をたくさん見ている。だからその分親しみを覚えるのも自然なこと。
ただ長く総理でいられたのはいろいろな理由で人気があったからで、長いより先に人気の理由があるのだ。

私が思い返すに、安倍さんが総理大臣をやっていた時というのは、「自国の総理大臣を誇れる」という希有な時期であったと思う。

他の人の時、森首相や福田首相や麻生首相や鳩山首相や菅首相や野田首相や管首相や岸田首相の時というのは、例えば外国の人に「日本のプライムミニスターは誰?」と聞かれても、「いや、誰ですかね……。名前を言うほどの人じゃないです。今誰が首相か、忘れました」と答えたい気分であった。
本当に「あれ、今は誰だっけ」と思い出すまで5秒くらいかかったりするし、「今は誰だっけ」というレベルでコロコロ代わり存在感がないので、言いたくもないのだ。誰が総理大臣だろうが僕たちには関係ありませんけど、という感じであった。
それが、安倍総理の時は、「日本の首相は安倍晋三総理大臣です。Our prime minister is Shinzo Abe!」と、胸を張って言えた。
海外の人、海外の大統領や首脳陣でさえ、日本の総理大臣で名前と存在をしっかり覚えているのは安倍総理くらいではないだろうか。「日本の歴代総理大臣と言えば、シンゾウ・アベとその他大勢」という覚え方をされているのではないか。小泉さんくらいは覚えられていそうだけど。

とにかくトランプ大統領はじめ、世界各国の首脳たちと対等に渡り合っている姿がとっても頼もしかった。
トランプやプーチンのような難しい人たちとしっかり関係を築けるような首相が、かつて日本にいただろうか?
G7の首脳陣に混ざっても、きちんと存在感があるのだ。
日本の総理といえばちっこいジイさんで、サミットの集合写真でも一人だけ頼りなさそうなヨレヨレした人が混じっている、海外の首脳と会談しても仲良くやっているふうには見せているけど向こうの大統領は「誰このジイさん?」と思っているし会談後の共同会見を見ても心が通い合っている様子は特になし、どうせ日本の首相は「コロコロ代わるジイさん」として外国からナメられていて深くつき合ってもどうせすぐ代わるから無駄だと思われているのだろうなあ……。
というのが、私のあくまで個人的な「日本の総理大臣」に対するイメージであった。

それが、安倍さんは全然違うのだ。
他の国の大統領と、ちゃんと太い繋がりを作っているのだ。
まったく下に見られることなく、素人目にも他国の首脳陣と「人間同士の信頼関係」を構築しているように感じられた。こんなことを日本の首相ができてしまうとは。
これこそ日本のリーダーだ、と思える総理大臣が、私が物心ついてから初めて登場したのだ。

その他に、「私の国がやられたら助けてね、でもあなたの国がピンチでも助けませんけど」という国民として恥ずかしくてしょうがない、子どもみたいな「集団的自衛権を持っていない」という状況を半分くらい改善し、日本をまともな国に近づけてくれたのも安倍さんであった。
安倍さん以外の誰だかよくわからないおじいちゃん総理が、それを出来たとは思えない。

私は自分が日本人であることに、安倍内閣の時には胸を張れたような気がする。
安倍さんが去ってから、日本人であることが恥ずかしい時代が始まった。

小泉さんもブッシュジュニア大統領と蜜月の関係を築いていたし、日本の総理大臣としては珍しくカリスマがある人物であったが、それでも安倍さんほど「親しみ」を持たれていたかというと、そうでもない気がする。
小泉さんは孤高の存在というか、頼りにはなるが「上の方にいる人」というイメージではなかっただろうか。我々庶民とは住む世界が違う印象。人気はあるが共感は難しい。
対して安倍さんは、実際は庶民と住む世界は違うのだけど、まるで「近所の優しいおじさん」かと我々に勘違いさせるような、繰り返しの表現であるが1番しっくりくる「親しみ」が感じられる人だったと思うのだ。

私は何度か、「誰かが安倍さんと一緒に写った、記念写真」を見たことがある。
旅先で訪れた食堂に従業員のみなさんと安倍さんが並んだ写真が飾られていたり、親戚のおじさんに安倍さんと撮ったツーショット写真を自慢気に見せられたりした。
これが福田総理とか鳩山総理とか菅総理(民主党)とか管総理(自民党)とかだったら、そういうふうにならないと思うのだ。
地方の食堂に福田総理とか野田総理が来たとして、お店の人は一応有名人だから一緒に写真は撮ってもらうものの、それを店舗に堂々と飾るかと言ったら微妙なところだと思う。
管総理や鳩山総理との記念写真だったら、「自民党(民主党)が好きじゃないお客さんもいるし、まあ表に飾るのはやめておこうか」とそっとバックヤードの引き出しにしまわれたのではないか。飾ったとしても総理を辞めたら取り下げるだろうが、安倍さんの写真ならずっと飾られ続けるはず。
親戚のおじさんも、野田総理とツーショット写真を撮ったとして、わざわざ写真を持って来て私に自慢しないと思う。
そのくらいの、自民党とか民主党とかいうところを超えた、政治に興味がない人でも好きになってしまう愛嬌とか包容力とか頼り甲斐とか、人間としての魅力が安倍さんにはあったと思うのだ。

この動画に、安倍さんの人となりが良く表れていると思う。


日本の権力のトップにいる(いた)人が、女子高生か中生相手に、こんなフランクに。
ハートを作るところもそうだが、冒頭の指差しながらの「カメラ撮る?」の気さくさよ。
いくら選挙期間中でも、他の歴代総理がこんな自然に庶民に話しかけるだろうか? 福田さんや管さんや野田さんや岸田さんが道端の女子高生にこういう声のかけ方をするシーンが想像できるかい?
自然さがすごいのである。気取らなさが。
この空気感を、他の歴代総理たちより遙かに長くトップの座にいた人が出せるのが凄いんだ。本当に凄い。
この人が銃弾に倒れたとなったら、みんな献花に並んじゃうよな……。


それにしても、銃撃の映像を何度見ても一発目の後に「ここでなんとかならなかったのか!!!」と悔しくてたまらない。
後方を注意して見張ってる人がいさえすれば。
犯人の山上がスタスタ歩いて来て、カバンから銃を取り出して構えて撃つ、その流れはたしかに恐ろしくスムーズである。実戦経験のある兵士のようだ。
しかし、もししっかり背面に目を向けて警戒している人がいれば、男が近付いて来てなにか取り出した、なにか武器のような物を!!で、発砲の前に飛びかかって行けたのではないか。あるいは「伏せて!!」と叫ぶくらいはできたのではないか。
それなら1発目の発射には間に合わなくても、2発目は食い止められたと思うのだが。

事件前夜に「山上の自宅からたった4キロ先で安倍さんが遊説をする」ということが偶然にも決定し、偶然にもそこは背面に道路とバスターミナルという広いスペースがある場所で、奈良県警が数十人を動員して警備していたのに偶然にも安倍さんの背後を警戒している者は誰もおらず、なぜか1発目の銃声では誰も安倍さんを台から降ろさず安倍さんもその場から動かず、「自作の銃で散弾を撃つ」というおよそ的を捉えるのが不可能と思われる攻撃方法でなぜか進路に割り込んで来たSPや安倍さんの両脇にいる取り巻きの人たちや大勢の群衆にはかすりもせず安倍さんにだけ複数発命中し、たまたま安倍さんが左を向いたために肩から銃弾が侵入し2箇所の動脈と心臓を直撃して絶命させるという、いくつもの偶然と奇跡が重なって最悪の結果が生まれた。
「この失態を今後の要人警備に生かさなければいけない」と前向きなことを言っている人もいたが、今後に生かすとかじゃない、今回失敗したらいけなかったのだ。安倍さんの銃殺という、なにを置いても絶対に防がなければいけなかった事件を防げずに、なにが今後に生かすか。これを防げなかったのに、今後などあるのだろうか。
とか、外野の素人としては無責任に思ってしまうが警備の人には警備の人としてのアンラッキーもきっと重なっていたのだろう。1000回に1回くらいしか成功しないテロのその1/1000にたまたま当たってしまったのではないかと思う。

歴代の総理大臣では伊藤博文や犬養毅も銃殺されたが、安倍さんの銃撃はもっと大きな事件ではないだろうか。
伊藤博文や犬養毅の時代は、「銃で誰かが撃たれる」ということが、そこまで珍しくなかったはずだ。当時の日本人で撃たれて死ぬ人は毎年毎月それなりにいたのではないか。
さらに、伊藤博文や犬養毅のことを、当時の国民はどれくらい知っていたのだろうか? テレビどころかラジオですら「持っている誰かの家に集まって聞く」という水準の、情報が届かない社会であったはずだ。首相の顔など、せいぜい画の粗い新聞で見るくらいではないか。
そのよく知らない首相が殺されましたと新聞に書いてあっても、感情が動く庶民もあまりいなかったのではないか?

それが現代では、テレビをつければ毎日のように動く総理大臣の姿が映像で流れている。
そして国民の誰もが知っている総理大臣が、今や年に1度も発生しない銃撃事件で演説中に殺され、あらゆる角度から撮影された銃撃のシーンが即座にweb上にアップロードされ、何千万という国民がその鮮明な映像を目にしたのだ。
これほど国中に衝撃を与える事件がかつてあっただろうか。
大化の改新や関ヶ原の戦いでさえ、現場にいない多くの庶民は「なんかそういう事件があったと噂では聞いたけど、別にショックとかは受けてない」という状態ではなかったか。

ただそう考えると、安倍さんはこういう最期を迎えたことで、さらに歴史に大きく名を刻んだとは言えるはず。
政界を引退してたまにご意見番みたいな形でメディアに出て、やがてヨボヨボになって姿を見なくなって、時が経って「安倍晋三元総理大臣が昨日、老衰のため90歳で亡くなりました」と死亡記事が出るという、そういう大往生もそれはそれで幸せなのかもしれないが、日本の歴史と人々の記憶への残り方は全然違ったはずだ。
そのように亡くなるのと比べて、「まだ現役の議員である時に、演説中に銃撃されて死亡する」という亡くなり方は100倍歴史と我々の記憶に強く刻まれるのだ。

この死に方も、安倍さんだからできたのかもしれない。
こんないくつも偶然が重なる、奇跡のような散り方は他の人ではできなかったのではないか。
「昔は大人気だったヨボヨボのおじいさんの安倍晋三さん」ではなく、「大人気の政治家安倍晋三」のまま現役で散るというのは、それもなみの政治家では為し得ない偉業だったのではないか。
坂本龍馬は若くして暗殺されたからこそ他の偉人とは桁違いの人気を誇っているのだと思う。もし龍馬が長生きして、第○代内閣総理大臣になっていたり岩崎弥太郎のように実業家の重鎮となっていたりしたら、ここまでの愛され方はしなかったと思うのだ。
同じように、安倍さんも、この銃撃によって「歴史上の偉人」となるストーリーが完成されたようにも思う。もしかしたら安倍さんは天国で「俺は死に方までカッコイイだろう」と笑っているんじゃないかと、そう考えると少し救われる気がするし、正直本当に安倍さん自身もちょっとそう思っているのではないかと思うのだ。


ピアノを弾く安倍さん。
昨年10月の「ジャパン・スピリットコンサート2021」という、よく知らないが多分有名なコンサートのために、演奏した映像だそうだ。


動画後半で、「ピアノは小学校1年生まで習っていて、それ以来触ってもいなかったけど66歳になってまた練習を始めた」と言っている。
すごくないですか?
総理大臣ほどのポジションにいる人が、総理大臣として分刻みの激務をこなしながら、66歳になってからそういうチャレンジする?

慈恵医大の元外科部長で、安倍さんとも親交のある大木隆生先生がアップされていた動画。
こんなに大勢の人が集まって、こんなに感謝をされて見送られるような人物は、もう日本では二度と現れないのではないだろうか。
終わります。



追記あり


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