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9月24日のマザコン6

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記事の本題とはズレますが、この文章は無料コンテンツにもかかわらず、また記事の公開を開始したばかりにもかかわらず、すでに何件かのクリエイター支援・サポートをいただきました。
ご支援くださった方に、心より感謝いたします。
いただいた支援は、今後私がなんとか自分の活動に戻れるよう、主に浜松・東京間の交通費をはじめとした、二拠点生活に必要な活動資金とさせていただきたく思っています(まだ今は実家に釘付けの状態で、とても二拠点とか言っていられる局面ではないですが……)。
なお医療費や介護費に使うということは今のところ考えていません。「親の介護費用は親の貯金から」というのが、介護を維持するための基本らしいので……、また私が文章を書くことで得たお金は、私が創作活動を続けるために使うことが読者の方に対しての礼儀ではないかなあと思っています。
まあ本当に切羽詰まったらなにをしでかすかわかりませんが……。
ともあれこのような気の重くなる記事に対してサポートをいただけて、心の底から嬉しく思っています。ありがとうございます。


…………9月25日、金曜日。
わかばクリニックで薬を処方してもらい、母は今日から服薬治療を始めることになった。
とりあえず次の予約は6日後、来週の木曜日に入れてもらった。
母は不安・心配の妄想が暴走している状態だが、それでも半分くらいは理性が残っており、半分は普通の言動が出る。
例えば専業主婦として家事全般は自分がやらなければいけないという意識はまだ残っており(父が就業中はともかく、父定年後もずっと母だけが家事をやっていてそこの不公平感はすごくあったが)、その使命感から、クリニックの帰りにも「夕ご飯買っていかなきゃ」と、私をコンビニに寄らせてお惣菜やらサンドイッチやらを購入していた。1番状態が悪くて心配されるべき人が、家族のごはんを心配してくれている……。
私はなにも食べたくないが、今日は起きてから水も口にしていないし、「ご飯いらない」と言うとまたややこしいことになるのでサンドイッチだけ買ってもらった。

母がどういう時に普通になるか、いつ妄想が発動しいつおとなしくなるかは、時間帯や、主に話題によって変わって来る。
のだが、たとえ「今は比較的静かだなあ」と感じる時でも、禁句というか、特定の話題に少しでも触れてしまうともうダメだ。とりわけ「お金の話」や「病院・病気に関する話」などが出てしまうと、「もううちは破産だよ! 病院に払うお金なんてなんにもないんだよ!? お父さんだってこの前の入院で100万円も払ったんだから!! もうなんにもお金ないよ!」と不安妄想スイッチが入り、家族の精神を追い込んでくる。
今月までの父の入院費は請求書を見せてもらっても100万円なんて全然かかっていないし、入院1日につき○千円という医療保険だって下りるので、最終的な支出は100万円の何分の1で済む。
ところがそれを説明しても母は受け付けないのだ。100万円なんてかからないよ、保険も出るしもっとずっと少ない金額だよ、と伝えても「そんなことあるわけないじゃん! なに言ってるの? ツヨシくんも頭おかしいよ!」と筋の通らない否定が飛んで来る。母からすれば私の方が「無茶苦茶なことを言っている頭のおかしい人」になってしまうのだ。

…………それにしても。
こんな状態なのに、よく昨日、私に電話してきてくれたと思う。
私が東京で電話を受けた時は、病んだ人の声ではあったものの、それでも母は父の状態も母の状態も良くないことをきちんと説明してくれた。きっと理性が戻っているわずかな隙をついて電話をかけてくれたのだろう。
今も惨憺たる状態ではあるが、それでもさらに手の施しようがなくなる前に連絡をもらえてよかった。よく連絡してくれたなあ……。
母自身も息子に連絡することには、かなりの葛藤があったはずだ。だからこそ母は留守電にもメッセージを残さなかったし、携帯にもかけてこなかったのだ。携帯やLINE、連絡を取ろうとすれば他にもいろいろ手段はあったのに。
父の退院の少し前、まだ正常だった母が言った、「わざわざ帰って来なくて大丈夫だよ。仕事休んでまで来なくていいからね」という言葉がとても印象深く思い出される。今思えばあれはとても重い言葉だったなあ……。母は私に迷惑をかけないためにこれほどのストレスを一人で背負う覚悟でおり、実際に自分の頭が狂うまで一人で頑張っていたのだ。その覚悟は、家族として私が引き継がなければいけない……。

帰宅して夕食、父母は暗い顔でコンビニのお惣菜を食べているが、私はそこへの参加は拒否した。さすがに、自分以外のメンバーが理性的に喋ることもできない食卓は一緒に囲むのが苦痛である。それに、いつも母の作った料理が置かれるこのテーブルに、できあいのコンビニお総菜が並ぶ景色を見たくない……。
少し助かったのが、両親が早寝早起きだということだ。私が昼近くに起きて深夜に寝るというスタイルで生活しているのに対し、元々早寝早起きの親は父の入院を経てさらに寝る時間が早まったようで、午後8時から9時くらいの間には2階に行って寝てしまう。
そうすると、ようやく私は一人になれる。病んでいる人が近くにいなくなり、なおかつ寝ているということは2人とも苦しさや辛さを感じていない状態ということなので、今は親の心配をする必要がなくなる。だから9時を回れば、私はいくらか精神的に落ち着くことができる。
ただし隠密行動が必須だ。なにしろ父は不眠がひどくて入院していた人なのである。1階でエアコンをつけるくらいの小さな物音でも起きてしまうようなので、テレビやネットを見る時も極力ボリュームを絞り、忍び足で行動しなければならない。そんな不自由な落ち着きである。

その晩、両親が寝てから夜中に私がやったのは、ネットでの部屋探しである。
昨日、東京から浜松に向かう新幹線の中で考えていたのだ。
漠然となら、もっと前からこのことは考えていた。
……うちの実家は、7年前から父がずっと具合が良くないため、ここ数年は「母でもっている家」であった。
おそらく、そういう状況にある家庭は世の中にわりとたくさんあるのではないかと思う。私も友人知人と話していて、似たような環境にいるという人の話はちょくちょく聞く。特に我々昭和生まれの親世代では母親が専業主婦という割合も高いだろうし、時代というか傾向として「家事は女性が担当する」という役割分担の夫婦が多いと思う(良いか悪いかは別として)。
その上、平均寿命は女性の方が7歳ほど長いのに「旦那さんの方が年上」という組み合わせが標準で、その分、男の方が早く健康を損ないそれを奥さんが支えるというパターンになりがちなのだと思う。
なので「うちは母のおかげでなんとかもっている」という家庭事情はよく聞くし、その次の展開として「もし母が倒れたら、うちは終わりだなあ」という話にもなる。
特に東京都民は大半が「地元を離れて東京に住んでいる人」なので(少なくとも私の周りでは)、そういう危うい綱渡りの上に成り立っている生活は少なくないはずだ。実家を出て東京にいる多くの人は、「離れて暮らしている親がなんとか自分たちだけで踏ん張って生活を成り立たせている」という難しい条件がクリアできている間に限り、自分の安定した生活が成り立つのだ。

とはいえ、それはどこかでわかっていても、そういう現実はなるべく認識したくないので、私も東京にいる時にはあえてなにも考えないようにして逃げていた。とはいえ。とはいえそれでも時々「もし母親が倒れたらどうなるんだろう」「もし父より母が先に死んだらどうなるんだろう」という不安がふと頭をよぎることはあった。そして、「最悪の場合、俺が地元に帰るしかないのかな……東京の生活は諦めなきゃいけなくなるのかな……」という恐ろしい想像に襲われて身震いしたものだ。
何が言いたいかというと、つまり一人っ子である私は「最悪の場合は自分が地元に帰るしかないのかもしれない」という考えが頭の片隅にはかすかにあったということだ。絶対に現実化して欲しくない、全否定したい考えだったけど。

そうして、まあ最悪の場合っていうのは本当に最悪の場合のことだから、なかなか最悪になることなんて人生そうそうないから大丈夫だよ、と不安な時には自分を励ましていたのだが、ところが、その最悪な場合が本当に発生してしまった。しかも、ただ母が過労で一時的に倒れたというようなものではなく、母が人が変わってこちらに襲いかかって来るという、最悪の中でランク分けがあるとすれば最悪の中のさらに最悪と言える、想像を超えた最悪の場合になってしまったのだ。
だから浜松に向かう新幹線の中で私は、「これはどう考えても長く東京に戻れなくなるなあ……。かといって、実家でおかしくなった両親と一緒に暮らしていたら、自分もぶっ壊れる……。じゃあ、実家の近くで、自分が一人になれる空間を確保しなければいけないのではないか……」と思い至ったのだ。

夜の11時、12時過ぎまでかかって、私はサンドイッチを無理矢理口に押し込みながら、住宅情報サイトで実家から徒歩圏内にある部屋を調べた。絶対に絶対に、絶対にしたくない引っ越しのために……。全否定したい手段のために。
しかし、そうしないと自分が正気を保てる気がしないのだ……。


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