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扉の向こう

やっとやっとすずめの戸締まりをアマゾンプライムでレンタル。
ここまで本題に直球だと感想とか分析とか書くことは全くない。
新海誠はどの作品でも変わらずこちら側と向う側、この世とあの世を描いている。
でもこちら側のこの世が既にあの世みたいな景色で。

僕は新海誠の作品はストーリー、筋書きより絵に、景色に全てが現れていて、新海誠作品のあの世の様な景色が懐かしく、好きだ。

すずめの戸締まりは更に割り切って、更に突き進んだ感がある。それによって失ったものも多いが、シンプルに踏み込んだのは良かったと思う。

この作品に関しては客観的なことは語れないなぁ。
何故なら実は個人的にかなり驚いたことがあって、自分の体験とあまりに符合し過ぎていた。

で、もちろんタイトルもテーマも戸締まりであり、地鎮祭的なことが大きなところなんだけども、それよりも遥かにあちら側の世界についての生々しい経験。
その景色が圧倒的で、全てはそれだけに収斂されている。扉の向こうと、扉の向こうを見てしまった経験。
そこにこの映画の全てがある。
いやこの世の全てがある。

全ての時間がある扉の向こうの世界。
迷い込んだその世界の景色を、巡り巡って今度は自ら決意して見に行くことで完結する物語。

こちら側のことを鎮めるにはあちら側と繋がってバランスを絶えず調整していくしかない。
何故ならこちら側の世界とは儚いかりそめのものだから。

懐かしい景色だった。
ふと今でも思い出す時がある。
それは夢でも幻でもない。
かと言ってこのただの現実でも無かった。

最初の景色をずっと覚えていた。
特に子供の頃は度々思い出していた。
話してはいけないと言うか、話しても通じないことなのだと気がつくのはある程度の年齢になってから。
しかし、それ以前に誰かに話そうと思ったこともなかった。それくらい自然な当たり前のことと言うことすら思ったこともなかった。
ただその景色はそこにあった。

最初に見た景色。

このブログの記事でも何度か書いている。
変な話になってしまうので有料の記事で公開した。

なので今もそれを語る気はないけど、すずめの戸締まりはその景色を普遍的なものとして描写出来ているから、あれを見れば良い。

扉の向こうの景色。
そこには全てがある世界。
僕らはみんなそこからやってきたし、この世界は全てそこからやってきている。

そして、気がつく。
僕は最初の記憶として、扉の向こうの景色を見ていたけれど、その後そんなことは全く意識せずに、様々な出会いの中でたどり着いた役割、仕事が閉じ師だったこと。
なきものにされ、或いは忘れられ、見捨てられている無数の過去や現在の想い、時にそのエネルギーは秩序を破壊する程の力を持ってくる、その中でも個人の心の奥にあってその人を動かしている領域、僕はそれらを受けて声を聴いて鎮める、必要な場合は扉を閉める。そんな仕事をしてきた。

個人の心の奥は世界と一つに繋がっている。

ある時期まで、いやかなり最近まで僕は最初の記憶を、小さな頃はよく見えたあの景色を、意識したり考えたりすることはなかった。
自覚もなかったけれど、忘れたことは1度もない。
今でも鮮明に蘇る。

すずめの戸締まりはとてもシンプルな話だけど、あの情景を新海誠は何故描写出来たのか、僕には不思議だ。謎でもある。
個人の心の奥は全てと繋がっている。
だから個人の中からこの世界の秘密が見えてくる。
時に本人すら気づかず、それはその人を通して表へ現れることがある。

作品と言うものもどこまでが作者のものなのか、それは分からないと言うよりも、はっきりと本当に大切なものは個人を超えて出て来ると言える。

無数の日常、ささやかな場面の連鎖、沢山の「行って来ます」が交差する走馬灯。あのシーン、好きだなぁ。あれがこの世界だから。


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