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桜走る

書く時間もなく、相変わらず走っている。
そんな訳で桜の写真がない。
でも特にここ2日で沢山の桜を見ている。
今日は雨の中を。
寒い土地の桜こそが綺麗だと思っていた。
でも志摩に来てからこっちの桜も綺麗で。
志摩から鳥羽に抜ける道を毎日通っている。
沢山の種類の桜が次々と通り過ぎる。
桜の中を走っているけど、桜のほうこそ僕の前を駆け抜けて行く感じがする。

止まって見る桜より綺麗だ。

目で見えない遠くの花火が好きなのと同じく、走って行く桜が好きになった。

前線から引いて久しいけれど、現場には定期的に立つ。場は年々深まる。不思議なもので。
10代、20代前半で既に僕の立つ場は完成されていた。もうこの先はは無いと感じていた。
でも、このなんとも言えない深まり行く感覚は面白い。終着点を見ていた眼差しに狂いがあったとは今でも全く思わないけれど、その先の世界があることを知ったとも言える。
言葉では矛盾しても事実は矛盾していない。

驚きも感動も与え得た現場、今でもハッとしてくれる人がいるけど、場に立ったら80%以上はただそこに居るってことで、誰もが特別な何かが出来る訳では無い。みんな同じように80%以上ただそこに居るだけ。
それなのに佐久間の立つ場は何故違うのか。
普通の人が思うのはじゃあ20%くらいのところに何かあるんじゃぁ、って。だから学ぼうとか近づこうと思ってくれる人達も20%くらいの何かしてるところを見ようとする。

でもね、それはみんな同じで80%以上がただ居るなんだから、そこが重要に決まっている。

鳥羽からの帰りは幻想的なまでの霧で何処までも淡く白く、景色は消えて、霞んだ世界が微かに見えながら、霧の向こうを目指してひたすら走る。

霧の中で見る桜は目眩がするほど綺麗で、ピンクと言うよりは赤く怪しく。
目が眩む桜の赤。
ふと言葉が蘇ってくる。
数日前の久しぶりの現場で初めて会った作家が、僕を「まかっあさん」「まっかあ先生」と何度も呼んだ。

場での出会いは一瞬にして相手との接点から、深みへと入り込む。そこで見える景色と、聴こえる声、言葉。霧の中の真っ赤な桜が走って行く。
まっかあさん、まっかあ先生。

場は難しくない。
己を捨てて尽くせば良い。

職業に、と人は言うけど、いや職業だけでなく全ての行為、場面において貴賤はない。
制作の場に立っていようと、労働者として動いていようと僕の意識は全く変わらない。
いつでも同じ。目の前にいる仲間たちのために動く。
仲間の存在が全てだ。
そこに居る人達を少しでも助けられるか。
喜ばせられるか。

子供だった頃の僕を助けてくれた女性達は、今以上に蔑まれていた夜の世界の人達だった。
その人達が教えてくれたことは、人に尽くす芸だった。今でもそれを思い出す。
身に沁みて知っている。
誰かを笑わせることほど凄いことはない。
見せて貰ったその芸を僕もまた磨いてきた。

そして、今日のここまできた。
今は憑き物がとれた成れの果て。
芸の頂点は必ずとり憑かれた状態で、その先に憑き物がとれた世界がある。
こんな場所まで来れるなんて。
だからこの桜もかつての桜とは違う。
今しか見えない桜。
今だから見える桜。

それは何処までも怪しく美しかった。
そして僕は走り去る。
桜もまた。

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