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帰れると思っていたこと

さてさて、本当に久しぶりでそしてもう書かないかも、とも思っていたけど夏頃目処に、いやもしかしたらもっと早く有料記事を復活させようかと思う。
このページの醍醐味だし。

はい。もう暫しお待ちを。

僕が人より多く経験したり自覚したりしてるのは、
幼少期からの特殊な環境ゆえの、
まあ率直に言って、無常とか死とか、そう言うものが日常であること、直ぐに隣にあること。
もうそれはどれだけ叩き込まれてきたか。

それでも、あ、と思うことがある。
忘れていた、とか甘かったとか、自覚が弱かったとは全く思わないんだけど、なんと言うのか、人生のミステリーな感じで、ふと気がつくと感慨深く、しんみりしてしまう。

それはあー、もう無いんだな、とか、もう帰れないんだな、と言う想いで。
過ぎ去った輝かしく愛おしい景色に対して、寂しさもあるけれど、それ以上に失ってしまったものがとれほど素晴らしく、美しかったか、そして、それが今でも自分に与えてくれているビジョンだったり。
つまりは感謝の思いだけが残る。

帰れると、直ぐにそこへ帰って行けると思っていた。
それくらい、その場所、その景色は僕の身近なものだった。家みたいなものだった。
いつでも隣にあって、直ぐに帰ることが出来る、と。
しかし、それはいつの間にか無くなっていたり、変わり果ててしまっていたり。
気がつけばもうその景色はそこにはなくて。
もうその場所に変えることは出来ない。
それらの時間は昨日のことの様に鮮やかに思い出されるのに。
そして、そこに居る自分はまだ若くて、若さの自覚も無くて、ふらっとちょっと暫く行って来るね、と出て行く。また直ぐに帰って来るから、と。
しかし2度と帰ることはなかった。
出来なかった。

気がつけば本当に遠いところまで来てしまった。

かと言って後悔などあろうはずもなく、ただただ美しい景色が浮かんでくる。
金沢も信州もそんな場所で、20年暮らした東京もそんな場所になりつつある。
遥か遠い昔のことの様であり、ついつい昨日のことの様でもある。

僕はこの幻の様な時間の中で途方に暮れる。

それくらいに一体となれた場所、自らの身体の様な場所、永遠に終わらない様な景色。
これが人生なのか、と思ってみたりする。

物理的な現実は、その景色がもうないことを示していて、時にその事実に驚かされる。
そして、時間と言う存在がやはり疑わしく思える。
時間も空間も意識の中にしか存在しない。
それは深い実感として認識されている。

もう帰れない場所は、しかし永遠にここにある。
今でもふと実家に帰る様な感覚で行けるような気がしたりする。

この世の全ては幻だとは知りながら、その神秘にいつも驚かされる。

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