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場の中で

はいはい。なんか残ってました。
いつ書いたものか、そんなに前でもないと思うけど、下書きの状態で残っていたので以下、ひとまず上げておきます。

例えばね、やってた頃の感覚なんだけど、
場に立つ。そうすると見える。それまで見えなくても、立ったら見える。
色々考えてても、立ったら思考が止まる。
色々あっても、身体だめでも、心駄目でも立ったら消える。でね、そう言うのが消えて、フラットに、全くゼロになるからこそ、はじめて、ね、見える訳で。
場も見える。対象も見える。

見えなきゃ何も出来ないんだよね、見えなきゃ動けないんだよね、だからね、つまり場で見るために、場で動けるために、恐らくは無意識やら潜在意識やらがね、ゼロにせよ、と指示を出して実行してる。
こう言う単純なことがベースなんだよね。

で、何度か言ってるけども、自動的なんだよね。
動きが自動的に出て来る。
ほぼ僕はプロセスを見守ってるだけなんだよね。
ある意味で幽体離脱みたいにね、自分を自分の身体と心を外から見てる。
いや、幽体離脱と違うのは動いてる、生きてる自分を外から見てるんだよ。
その自分は動いて色々やってるけども、はっきりしたプロセスの中にいる。

質問受けたり、アドバイスを求められる時に、良く聞かれるのは失敗したり上手くいかなかったことはないか、ああしておけばよかったと言う時はないか、と。答えはもちろん全くない。
もっとこうすればとか、自分が上手く出来なかった、力不足だった、もっとこうならなきゃ、と言うのは全て自分を見ていることだ。
場において自分を一切見ないことが重要。
対象に集中する。対象だけを見ること。

不思議と言えば不思議なことだけど、ゼロにさえなれればプロセスは全て明確で正確なものとして見えてくる。何もかもが正しい方向へ向かって行く。

何度も書いたが場は深い意味での対話である。
一挙手一投足が、流れる気配が全てメッセージを持って響く、それぞれを聴き取り聴き分け、返して行く。
ただ立つ、座るにしても、どの角度か、強弱はどのあたりか、バリエーションは無限であり、その微細な使い分けは正確なものでなければならない。
しかし、それら全ては自動的に行われる。

流れに委ね、任せること、信頼すること。
ただ1つだけポイントがある。ただ放置することとの違いはなにか。
それは正確な位置情報と明晰な自覚が必要だということ。自分が何処にいるのか、事物1つ1つが地図の中の何処に位置するのか、それが見えているかどうかで違うものになる。
特にプロセスを崩すものは、不安、恐れ、心配。
すこしでも不安や恐れが残ってはいけない。
恐怖心と言うのは雑念の代表的なもの。

今更こう言う話をしようと思っている。
何故今頃なのか、って言うと。
うーん。
まだやってみたことは実はないんだけど、他のことにもこれが応用可能なのか、と言うことを考えてみている。もっと言えば人生全般で使えないか、と。

一応ここではこれは場に限った心得と言うか、1つの技の在り方として書いたけど、ここから先、こう言うことが色々応用編で活かされるのか、と言う単純な興味があって。
まあ、これは僕一人ではこれ以上のことは言えないけど、ひとまずここで共有したい。

続きはまたいずれ。

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