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お帰り

暫く書けてなくてね、そしてこれからもペースは落として行くとは思うけどね。
でもこのページはとことん書いたのでね、良かったら過去記事をじっくり読んでみてね。

さてさて、やっと読み返し、聴き返し、再鑑賞を断続的にやりつつある。
文字通り再発見、再認識の日々。
止めないとね、捨てないとね、新たなスペースが出来ないからね。減らしたら新しい発見が沢山ある。

毎日、1時間以上は車の運転してるから、その時間ずっと小唄をかけてる。
ふっとね、あ~何十年ぶりかなぁ、って。
あ~、ここに居たんだよね、って。

最初に聴いていたというより、聴こえていたのが三味線と太鼓の音だったし、座敷の気配だったし、ね、僕が居たところ、育った環境にずっとそれがあって。

そして可愛がってくれてお姉さん達の近くにもそう言うのがあったりね。

小唄のことはこれまで3度ほど書いたけどね。
思い出的に。

そう。
小唄の世界がね、1番馴染みある景色でね。
小唄の音色が語るのは、この世界は仮のものってことで。この全てが夢の様に実体のない儚いものだって、それを見極め、達観しきった世界に漂う情緒。
全ては刹那に消え去る幻。

仮りそめの世界の自覚が、今と言う刹那に感じる情緒。

遠い遠い場所から見つめる、この眼差し。

あ~、懐かしいなぁ、って。
小唄を聴きながら色んな景色がね、過って行って。

初めに見ていた景色にね、やっぱり帰って来たんだな、って。

これで良い。

もうこの情緒の世界しかない。他は全部もうね、終わったんだよ、って。
全部が愛おしく懐かしい景色として過ぎ去ったものとして、ね。

こう言う情緒を知る日本人で良かったな、って。

スピなんかじゃさらさらなく、かと言って物理学持ち出すまでもなくね、この世界は全て波動で出来てると言うか、世界自体が波動なんだよね。
スッキリ言っちゃえばね。

それはね、般若心経なんかもそう言うことをひたすら言ってる訳でね。
で、全部がね、全てが波動って見るとね、波動にも高い低いがあって、荒い細かいがあって、高い波動、微細な波動をどんどん深めて行くと、低い、荒い波動からは見えない世界が見えてくるわけで、そうすると同じところに居るのに違う景色が見えて来る。
それが本質だよね、源だよね、って話なんだよね。
人生とか世界とかのね、結論と言うか究極のところはね。

それはさぁ、僕がやってきた場とかなんて結局はその最も純粋な形なわけでね。
見える見えない、って言うのがあって、見えないのはね荒いところにね、低いところにいるからね。
同じ場所でも全然うわべしか見えない感じられない世界なわけよ。
場はねそう言うことでね、人の格と言うのを感じるね。そんなところしか見てないんだな、とか。
でもね、見えて来るんだよね、僕らは響き合うからね。どんどん削られて磨かれてね、これだよね、あ、ここに居たのに今までなんで見なかったんだろう、って。あ、この人には見えるんだな、とか、あ、見えて来たな、良かったな、とかね。
そこまで行かないとぜんぜん面白くないからね。

で、そう言う世界をね、ずっと実践してきてね、そして離れて、ね。
幼い頃から聴いてきた小唄の世界。
日本人の情緒の世界を再認識するとね、あ、全く同じだな、って。

ちょっと早過ぎるかも知れない。いやそうなんだろうけどね、もっと色々やらなきゃなんだろうけどね、でもね、それは運命みたいなものでね、はい、お前はもうここだよ、って言われたらどうしょうもないんでね。だからね、僕はもう余生なんだよね。
それは良いことでも悪いことでもなくてね。

まだ書くことあるのかなぁ、って思うけどね、まだ生きてるからね、きっとまた少しづつ書くこと思うけどね。

小唄が流れてきて、あの頃、みんなが居たあの場所、あの景色に帰ってきて、何にも変っていないこの世界で、やっぱり全部幻だったんだなって。
そしてこの情緒の世界がお帰りって言ってるのが聴こえる。

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