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生きづらさについて

このテーマを語るのははじめて。
何故かというとそれは僕の生業として、実践が先にあるから。
生きづらさは安易に語られ、それでも大丈夫とか、安易に肯定され、安易に慰められ、終わってしまう。
こう言うことを言う人達には実践がないから。
その言葉や理論は空想から出て来ているから。
僕の生業は生きづらさを抱える人達とずっと向き合い共に歩むことだったから、安易に語ることは出来なかった。

アウトローにも本物とイミテーションの偽物がいる。
本物のアウトローは出て来ないから、見えるところには居ない。
本当の生きづらさも世の中で目に見えるところには無い。それはちょっと似たものに過ぎない。

多数派も少数派も世の中の仕組みを知った方が良い。
世の中はある型の思考や感性を持った人達にだけ都合良く出来ている。その外は無いことになっている。
殆どの人にはその外は見えない。

成功者や天才は、殆どは運とは言え、能力的な部分からだけ見ると、そう言う一般の人達より少しだけ上にあるか、少しだけ先に行っている。
ここが大事なところ。少しだけと言うところ。
かけ離れて能力があったら、それは外へ行ってしまう。かけ離れて先へ行っていたら、誰にも見えない。
先を行っている人、能力ある人とは、一般の人達から見える範囲の中にいて少しだけ前にいる、と言うことだ。逆に横を走っていて一周先に行ってる人がいたとして、その一周分は誰にもカウント出来ていないから、ただ横を走ってる人にすぎない。

本当のところ、これが生きづらさの本質だ。
今の箱庭の様に囲まれた世界。
この外は見えない様に囲いがされている。
人より見えたり、感じたり、早かったり遅かったり、本来はそれが個性であり能力であるものが、この枠から見えなければ、それは文字通りの無。

でも生きている1人の人間には見えるものを見えなくすることは出来ない。
感じられるものを感じなくする訳にはいかない。

生きづらさとは、合わない、であり、向いてないであり、やってられない、である。
この世の中に対しての。

だからどうするか、仕方ないと言うことなんだけど、だからこそこの仕組みを知るべきだ。
知っていれば少しは楽になるから。

凄い人沢山居るんだよねぇ。
僕はその人の能力や個性を発揮して貰う環境作ったり話を聞いたりして来たけど、本当に凄いとか素晴らしい力持ってても世の中では気づかれない。
どころか傷つけられることが殆ど。
上手くそれを世の中と繋げる様にもして来たけど、それはどこまでやっても限界がある。
限界まではやるけども。
でもね、能力は使えるか、使えないか、あるものを使えなければ不幸だけど、使えるだけで、一人でもそれを知る人がいるだけで生命力が出てくる。
そこを僕は見ていた。

そう言うのは今後も少しはやって行きたいなと。

この時期でもあるからねぇ、色々また不安定な人達から連絡あったりもして。
ふと友人のブログを読んでたら、この人もかなり不安定なんだけど、最近のもの、なんか破れかぶれでぐっちゃぐちゃに書いてるのが、それがかなりの名文で個性が発揮されてて、素晴らしかった。
しんどそうだけど、あんなはっとするような所々鋭く、突っ込みどころ満載な文章、誰にも書けないああいうの、書けるだけでもそれは凄いし、生きてる証だよ、って。

僕は小さな頃から本物のアウトローがゴロゴロいる環境を見て来たけど、10代の修行時代に出会った人達のことは今でも鮮烈に身体に刻まれてるし、思い出も多いし、今も一緒に居ると感じている。

強い個性、センス、そう言う能力は小さく囲われた世界の中でははけ口のない得体のしれない魔物を内面に抱えている様で、いつでも葛藤や苛立ちの中にあって、特に若い多感な頃はそれが強い。

また結局、信州時代を例にするけど、
今思うと僕の師匠とかもアウトロー集める訳だけど、本人自身がアウトロー的な感性なんだよね。
つまりは内面に違和感や不快感を抱えてる。
気づく奴と気づかない奴、
見える奴と見えない奴、って言う基準でやっぱりある種人を分けちゃってる人ではあったんだよね。
世の中ではそれが普通かどうか、能力があるかなしかとかそう言うので人を差別したりする訳で、
それは違うってところから活動するんだけど、
やっぱりそこでもこちら側とあちら側で分けちゃってるんだよ。
そこが師の矛盾であり弱点なんだけど、ただね、僕は分ける基準としては世の中より好きだった。
うん。感じる人間か感じない人間か。
僕自身もベースにその基準はあるから、やっぱり。

正直なところ感じない人間、センス無い人間は嫌いなんだよね。
嫌ったって別に存在否定してる訳じゃないから良いんだよ。別の場所で生きてけばね。

でね、当然と言うかその時期の僕もこちら側とあちら側で見てた。
よく妥協しないとか言うけどね、
これ師の場合もそうだったし僕もそう。
妥協しないんじゃなくてね、妥協できないの、そう言う人種なんだよ。生まれ持ってね。

で、その頃、信州時代ね、本当のアウトロー、こうしか出来ないと言う人達と居て、そんな中では師も僕もある意味、半端なんだよね。間だからね。
だからこそ繋ぐ、伝える、触媒と言うのが後に僕の生涯のテーマになるんだけど。

その頃、実習生として特に短大生が一定期間生活を共にしていた。
障害ある人達とリフレッシュの時間として週一回くらい指導的立場にある人が企画して、まあ軽い遊びみたいな感じで色々やってたんだけども、その中で実習生の子達にみんなと触れあわせようとそれぞれ自己紹介みたいなことやったんだよね。
これあえて言うけどね、こう言うのよくあること、よく見かけるとおもうけど、こう言う企画は師は嫌ってた。僕も嫌いだった。まあくだらない、ってことなんだけど。あまりに凡庸な発想で。でもね、普通はこの程度のことじゃないとなかなか理解はされない。
師も僕も大人気ないからね。

で、やっぱり世間で言う障害のある人達と言うイメージでその人達の前に立って自己紹介したって面白いこと言う子がいる訳もなく、例のね、はいまたつまらんあちら側の人達ね、って当時はね過激だったからね、相手にしないわ、みたいな感じで聞いてたらね、
趣味はピアノを弾くこと、って言った子に対してね、企画してる人がその場で今何か弾いてみて、って何気にね。音楽ホールとして作った場所でピアノもあったから、それを前に、はい、弾きます、って。
で、弾きだすんだけど、瞬間で、え!って。
ベートーヴェンの悲愴1楽章を凄い勢いでね。
それはもう一言で言えば全く場にそぐわないんだよね。和気あいあいを壊しちゃう。予定調和を壊しちゃう。誰もそんな真剣なもの求めてないことくらいはね、この子も分かる訳で、ね、それでもこれをやっちゃう、やらざるを得ない、ってところでね。
シーン、ってなっちゃって。
もう上手いとか、暗譜してて凄いね、とか誰もそんなのもちろんなくて、それはもうみんな引いちゃってる。あ、この子ってこちら側なんだな、って僕は感動したんだよね。

そらね、生きてる時間が長くなれば自分を誤魔化せる様にもなるしね。ある程度はゆるくやれるようになって行くんだけど、時としてああ言う光景を思い出して、やっぱりこの世間の中って生きづらいし、本音を言えば馬鹿ばかり、鈍いやつばかり、センス無い奴の集まりで、つまらんし、くだらんし、まだそれやってるんだぁ、それが面白いんだぁ、だし、そんなんで良いんだあ、その程度のものが流行るんだ、なんだよ。
遅い鈍いつまらん、って。
そこをね、なんとか隠して生きてるけどね、本心の深いところではやっぱりね、なんでそのレベルに合わせないといけないんだ、って憤りがある訳ね。

でもさ、人間って最初にも書いたけど、あるもの使わないと生命が枯れるんだよ。つまらないものばかり見せられると萎えるんだよ。
要するにそれはこの世間ってものが合ってない、って
こと。

だからね、生きづらさの本質にはそれがあって、それを否定しないことがだいじなんだよ。
教育でよくやりがちなそう言うことを思っちゃいけない、ってね、それは感性とか個性を否定しちゃってるんだよ。
そう感じちゃう、って言うのはその人の能力。
そう言う感性を開放させてあげないと。

だからね世間は変わらない、だから鋭い人間、感じる人間はいつでも渋滞に巻き込まれて走れないような中にいる、でも、そのストレスを消すために感性に蓋をしたら駄目。
それを感じちゃう人間なんだ、と言うこと、その自分のあり方ね、人のでもそうなんとけども、そこをね、そう言う種類の人間がいることを認めて行くこと。
そして難しいけど、時に突き抜け、突っ走ること。
そこが大事なことなんだよ、って今日は一部の人達向けだな。

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