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【コラボ小説】ただよふ 9(「澪標」より)


あの日から4か月、あなたとは、上司と部下のお行儀のよい関係を維持してきた。
互いに、それを逸脱できないことを理解していた分、相手の眼差しや仕草に潜む特別な思いを探していた。
2人の間に流れ出してしまった親密な空気を周囲に悟られないように用心することも忘れなかった。
もっとも、僕とあなたが2人きりになったのは、たまにランチをともにしたときくらいで、周囲には、気の合った上司と部下にしか見えなかっただろう。
高校受験した息子に桜が咲いたことを報告したら、あなたは心から喜んでくれた。

このままの穏やかな関係でいられたら、どんなに良かっただろう──


送別会の夜。
繁忙期を終え、無礼講と言わんばかりに羽目を外す上司に注がれたビールを、あなたは一気に飲み干していた。
少しして、あなたは宴席を抜け出していった。
朝から顔色が良くなかったから、僕は心配だった。

あなたの後を追うように、酔った男が席を立った。
この時は、偶々あなたと同じタイミングでトイレに向かったのだろうと思っていた。

しばらく経っても、あなたは宴席に戻ってこなかった。
具合が悪くなって、どこかで座り込んでいるのかもしれないと思った。

僕は隣に座っていた志津に、「鈴木さんを探してくる」と伝え、席を離れた。

宴の喧騒を背中に、僕はあなたを探そうとしんと冷えた廊下に出た。
ほのかにライトアップされた形ばかりの中庭に、小さな石灯篭が据えられていた。
それを見て、あの宮島の夜を思い出した。
もうすぐ、宮島には桜が咲くだろうか。

両側に宴の喧騒を聞きながら、あなたを探し、迷路のような廊下を歩いた。
一通り探したが、あなたを見つけることが出来なかったので、すれ違いだったかと宴席に戻ろうときびすを返した。

明かりが消えている部屋から、大声で悲鳴を上げる女性の声が聞こえてきた。
その声の主は、間違いなくあなたのものだった。

僕は胸騒ぎがして、廊下を全力疾走した。
僕が勢いよく障子を開けると、先ほどあなたを追うように部屋を出た男が、そそくさと僕の横をすり抜けていった。

暗がりの中、残されたあなたはひどく脅えていた。

「あなたが、なかなか戻らなかったので、心配になって探しにきたんです!どうしました?」
「ここに引っ張り込まれて……」
「何かされたんですか?」

あなたは口元を抑えて廊下に飛び出すと、突き当りに見えた化粧室に向かって走っていった。
僕はあなたが男に乱暴されそうになったのだと理解した。

「大丈夫ですか?」
尋ねてみたものの、涙を必死で堪えるあなたが大丈夫な訳がなかった。

「今日はもう帰った方がいいでしょう。送っていきます」
こんなにボロボロなあなたを大勢の前に晒したくなかった。
「大丈夫です……」
あなたは宴席に戻ろうとしたが、僕は制止した。
「大丈夫じゃないでしょう、顔が真っ青です!」

僕はあなたの腕を支え、店の入り口にあった木造りの長椅子に座らせた。
店員にタクシーを呼んでくれるよう頼むと、2人の荷物を取りにいった。

あなたを襲おうとした男が、1人で廊下に立っていた。
名前までは覚えていないが、彼は運営部に所属していて、確か関西に異動が決まっているはずだった。

「この事を大事おおごとにしたくはありません。
私の部下に失礼なことをしないで下さい。」
僕は低い声で、男に注意した。

「…あんたは、確かあの女の上司の…『海宝課長』でしたよね。
あんただって、あの女とやりたいって思っているんでしょう?」

それは、酔っぱらいの戯れ言に違いなかった。
僕はこの男に強い殺意を抱いた。
そんな感情を他人に抱いたのは、後にも先にもこの時だけだった。
僕は暴れだしそうな感情を必死に抑えた。

「何を言っているんですか。この事を訴えれば、あなたは栄転どころか社会の居場所を失いますよ。」
男はようやく自分が仕出かした事の重さに気付き、真っ青な顔で宴席に戻っていった。

タクシーの後部座席に落ち着くと、僕は静かに話し掛けた。
「彼には私の部下に失礼なことをしないよう厳しく注意してきたので、安心してください。もうあんなことはできないでしょう」
僕の心中は、あの男に対する怒りでいっぱいだった。

「すみません……。彼とは、過去にいろいろあって……」
あなたの顔色はますます悪くなっていた。
「あなたに悲鳴を上げさせることをしていい理由にはなりません」

僕は震えの止まらないあなたの手に、自分の手を重ねた。あなたに触れたのはあの新幹線以来だった。あの時手を握ってもらって僕が安心したように、あなたにも安心してほしかった。

「今日は具合が悪かったのでしょう?」
「すみません。仕事に支障のないようにしていたのですが……」
「僕が気づかないはずはないでしょう。どこか悪いんですか?」
「少し風邪気味で……。週末、がんで亡くなった大学時代の友人の通夜と告別式のために北海道に行ったんです。心身共に疲れていたので、風邪をひいたのだと思います」

心を通わせた友人の死は、死に縁遠いはずの年齢のあなたにとって、とても辛い別離わかれだったのだろう。
僕は、ぐっと力を込めてあなたの手を握った。

綾瀬のアパートの前でタクシーが止まると、僕も一緒に下りた。弓張り月が刺すような光を放っていた。

「風邪薬はありますか? 何か必要なものがあれば、買って届けます。部屋番号は?」
「大丈夫です。買い置きがあると思います」
「そうですか。では……、どうかお大事に」

僕はあなたを強く見つめた後、駅に続く通りに向かって歩き出した。
道の隅に溜まっていた紙屑が、風に吹かれ、かさかさと音をたてた。

あなたは夢中で追いかけてきて、後ろから僕の腕を掴んだ。

「少しだけ一緒にいてくれませんか、怖いんです……!」
あなたは震えていた。

僕は黙ってあなたの背中に手をまわし、アパートに向かって歩き出した。
あなたの目から涙が一筋頬を伝っていた。

あなたは部屋に入ると、涙が堰を切ったようにあふれてしまい、コートの袖で乱暴に拭った。その様子はとても痛々しかった。

僕は無意識にあなたを強く引き寄せ、口付けしていた。
我に返ると、僕は身体を引き離した。

「すみません。あなたは、あんなことがあったばかりで、男に触れられるのが嫌だとわかっているのに。耐えられないんです……、あなたが他の男にあんなことをされるのは……!」

僕は思い知らされてしまった。
あなたは部下である前に女で、既婚者である上司の僕は、これからあなたが他の男と付き合うのを傍観するしかないのだ。
だけど、僕も上司である前に男だった。
あの男の言葉を否定しきれない自分がいた。

あなたは僕の頬を両手で包んで引き寄せ、力強く口づけた。
全身の細胞がさざめき立った。

「あなた色に染めてください、あんなことを忘れてしまえるくらいに!」
あなたは僕に哀願した。

「僕にその資格がないことは、わかっているでしょう……!」
僕は心底苦しかった。
あなたを抱いてしまったら、それは家族への裏切りになってしまうから。

「そうしてくれないと、怖くて眠れないんです! だから、お願い!!私はピルを飲んでいるから大丈夫です」
あなたはこれからずっとあの男に乱暴されたことを引きずって生きていくのだと思うと、僕は堪えきれなくなってしまった。

あなたはもう一度口づけようとしたが、僕から熱い唇を重ねた。
それからは、岩に裂かれた急流が合流したように自然だった。

セミダブルのベッドに腰かけ、僕はあなたの頬の涙をキスで拭った。あなたの長い髪を撫でながら、頬や首筋に口づけていった。
香水をまとっていないあなた自身の香りも、僕は好きだと思った。

一糸まとわぬ姿できつく抱き合うと、こうなることが遥か昔から決まっていたような感覚に飲み込まれた。
若いあなたの躰は、適度に引き締まっていて、手入れの行き届いた白い肌が瑞々しかった。
襲われそうになった時に転んだのか、膝にあざが出来ていた。

僕は指で、舌で、あなたの躰を隈無く愛していった。
口付けしていった肌にはあかく花びらが散った。
はじめは冷たく震えていたあなたの身体は、熱を帯びていった。
あなたの部屋に漂う香りが、あなた色に僕の脳内を満たしていった。

あなたは僕の昂ぶりを口に含み、最初は優しく、次第に激しく愛していった。
あなたの潤った秘密の洞窟は、僕を受け入れてくれた。
僕たちは、自然に息の合ったリズムを刻み続けた。
僕の汗は滴り、動きが激しさを増し、目をぎゅっと閉じた。
それを合図に、あなたは足にぐっと力を込めた。
あなたの全身が震え、洞窟の壁が激しく収縮した。
僕は頭のなかが真っ白になった。

僕はあなたを背後から抱き締め、2人の汗ばんだ身体はスプーンが重なるように密着した。

「不思議。今まで、セックスは苦痛でしかなくて、感じたふりをして、早く終わるのを待っていたんです。濡れなくてジェルを使うことも多かったです……」
「本当に? あなたは、とても自然に応えてくれた」
「怖いくらいに体が開いたんです。太古から待ち続けていたものに、やっと出会えたような不思議な感覚」
あなたは体の向きを変え、僕の胸に顔を押し付けた。
あなたはすっかり安堵しているようだった。

「僕も同じだ。もう何年もセックスをしていなかったのに、体が驚くほど自然に反応した。水が低い場所に流れていくように自然だった」

僕はあなたを強く抱き寄せ、首筋に顔を埋めると、長い睫毛を瞬かせて、あなたの首筋をくすぐった。
あなたはいたずらをされた子供のように、けらけら笑った。

「嫉妬したことありますか?」
あなたは僕の髪を撫でながら尋ねた。
「僕は毎日している。あなたと言葉を交わす、笑い合うすべての男に。志津にだってしている」
「本当に?」
「当たり前でしょう。どれだけ僕のものにしたいか……」

背中に回した腕に力をこめ、僕たちはきつく抱き合った。
生き別れた片割れに出会ったような安堵は、気だるい眠りを呼びよせた。

目を覚ますと、あなたは先に起きていた。
「そろそろ帰らなくて大丈夫ですか? シャワー浴びますか?」
僕は、はっと起き上がり、枕元の時計を見た。
23時を過ぎていた。
「今日は送別会で遅くなると言っておいたから問題ありません。シャワーは浴びないで帰ります」
僕は衣服を次々と身に付けた。
「シャワー、浴びてからのほうがいいんじゃないですか?」
「妻は鼻が敏感なんです。石鹸や、水の塩素の匂いは、感づかれます。消臭スプレーを買って、服に吹きかけてから帰ります」

あなたは服を着ながら、部屋のアロマや香水の香りが僕に移ってしまった事を気にし出した。
あなたは枕元に置いていた香水エルバヴェールの瓶を慌てて引き出しにしまった。

「消臭スプレー、あります」
あなたはリセッシュのボトルを持ってきて、僕に渡した。
僕はそれを手に取ると、首を振ってあなたに返した。
「香りのついているものはだめです。無臭のものをコンビニで探します」
「これからは用意しておきます。アロマオイルをたくのも、香水をつけるのもやめます……」

僕はあなたから大切な「香り」を奪ってしまった。

きっちりと身支度を整えた僕は、「ごめん」とあなたを強く抱き締めた。
僕たちは引かれあうN極とS極のように身体を密着させた。僕は離れがたい抱擁をとくと、「ゆっくり眠ってください」と額に口づけてから自宅に向かった。

買った消臭スプレーをコンビニのトイレで吹きかけてから、僕は帰宅した。
既に日付が変わっていた。

妻はソファーでスマホを眺めながら、「お帰りなさい」と言った。
「ただいま。遅くなってごめん」
僕は妻と目線が合うのを恐れ、バスルームに向かおうとした。

妻がボソッと「香水の匂い…」と呟いた。
僕は心臓が跳ね上がったが、「部下が体調を崩して…介抱した時に匂いが移ったのかも」と咄嗟に言い訳した。
「そう、それは大変だったね」

妻は立ち上がり、ハンガーにかかったスーツのセットアップを見せてきた。
「入学式に着ていくスーツ、『友達』が選んでくれたの。どう?」
僕は少し色が派手だと感じたが、「いつもと違う感じで良いんじゃない?」と当たり障りのない返事をした。

妻は少し表情が曇ったように見えたが、「じゃあ、これ着ていくわね」とクローゼットにしまいに行った。

僕はシャワーを浴びながら、あなたとの行為を思い返していた。

決して家族が大事じゃなくなった訳ではない。
だけどあんな幸福感を知ってしまったら、あなたを手放す事なんて考えられなくなってしまった。
例え、それが不貞行為だとしても。

僕は家族を守りつつ、あなたとの幸せも守ってみせると決めた。


may_citrusさんの原作「澪標」、こちらも併せて読んでいただけると、物語をもっと楽しめます。


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