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【コラボ小説】ただよふ 22(「澪標」より)


妻が退院してからの治療方針を聞くため、僕と妻は診察室にいた。

「今後なのですが、しばらく薬物治療で様子をみようか、強迫性障害の治療に入るか、予め奥様の意向を聴いていたのですが…強迫性障害の治療に移らせてもらっても宜しいでしょうか?」
主治医が僕に同意を求めた。

僕は強迫性障害のことについて、本で読んだり、ネット検索して調べていたが、その治療法は妻が耐えられるか疑問に思うようなものだった。

僕は薬物治療でしばらく様子を見たほうが良いと、主治医に言おうとした時、妻が口を開いた。

「航くん。私ね…強迫を克服して、あなたの手を握れるようになりたいの。だから、お願い。次の治療に移ること、同意してほしいの!」
妻の決意は固いようだった。

「分かったよ、実咲さん。先生、強迫性障害の治療をお願いします」

主治医は、強迫性障害のエキスパートがいる病院に、紹介状を書いてくれた。

僕は退院の手続きを済ませ、妻と自宅に帰るためタクシーに乗った。僕が運転手に行き先を言う前に、妻が「すいません、海までお願いします」と告げた。

僕は耳を疑った。妻が自分から海に行きたいと言うのは、長い結婚生活でも記憶に無かった。

出来るだけ人が密にならない場所で、僕たちはタクシーを降りた。僕は真夏の東京のうだるような暑さに、退院したばかりの妻が倒れてしまわないか心配だった。

妻は海辺に着くと、目を瞑り合掌した。僕は妻の行動が、まったく理解出来なかった。

「実咲さん、何で海に向かって合掌しているの?」

「私、海宝家に嫁いでからあなたの実家にまともに顔を出してこなかったでしょう?お義父様の七回忌にも顔を出さなかった。遺灰は海に撒かれたと聞いていたから、どうしても海に来たかったの」
妻は僕の亡くなった父親に手を合わせていたのだった。

「……航くん、今のあなたなら話を聞いてくれるかな」
妻が僕の方に向き直った。僕は妻が火遊びをしていたことについて話そうとしているのだと直感した。僕は深く頷いた。

「──私、双極性障害が寛解してから同窓会に出席したでしょう。覚えてる?」

「うん。久しぶりに同窓会に出席出来たって喜んでいたよね」

「その時、職場の同僚だった人とも再会したんだけど、聞いてしまったの。あなたのこと。」

「え?『僕のこと』?」
火遊びの相手が話題に出てくると思い込んでいた僕は、驚きを隠せなかった。

「私が仕事を辞めた後、航くんは酷い目に遭っていたって。私は初耳だった。あの頃の航くんは私には何も言ってくれなかったから。」
妻は心底悲しそうな目で、僕を見つめた。

僕には言える訳がなかった。それは妻のプライドを切り裂くような、悪意に満ちたものだったから。

「航くんに『お腹の子の為に仕事を辞めてほしい』って言われた当時、私は生き甲斐を奪われたって思っていたわ。航くんがそう言ったのは私を守るためでもあったのね。だけど当時の同僚からその話を聞かされた時、私は『何で打ち明けてくれなかったの?夫婦で乗り越えるべきじゃなかったの?』って怒りがわいてきた。でも、航くんは言える訳がなかったよね。私の心身はあの頃には既に不安定だったから……」
妻の言っていることは適確で、僕は否定も出来ずに黙っていた。

「私が病で閉じ籠もっている間、同窓生は子育てをしていて、中には子育てが終わっている人もいて、とても眩しかった。なんで私は、夫に…息子に負担ばかりかけてしまっているのだろう。寛解したからには、きちんと自分の世界を持たなくちゃいけない。そう思った時、あの人に再会してしまったの。同窓生で、婚約者だった男性と」

「……それが実咲さんの火遊びの相手?」
僕の問いに、妻は静かに頷いた。

「最初はあなたを裏切るつもりは無かったわ。久しぶりだから、今度食事でも行かないかって誘われて。彼に実際に会っているうちに、私は取り戻せるんじゃないかって錯覚してしまったの。失ってしまった時間を、女性としての価値を。」
僕は自分からドロドロとした感情が湧いてきているのを感じていたが、表情には出さないよう耐えた。

「彼には双極性障害のことは黙っていた。説明して理解してもらえるとは思えなかったし、偏見の目で見られたくなかった。彼は私の病に気付くことなく、私にアプローチをしてきたわ。私は徐々に彼に依存していった。一線を越えてしまったのは、航くんが広島に出張に行った時だった。『夫が急に出張になった』と彼にメールしたら、『うちに泊まりに来ないか』って。私は気持ちが舞いあがってしまって、航平に『友達に泊まりにおいでって誘われた』って言い残して、彼に逢いに行ってしまった。」

広島出張といえば、僕があなたと宮島に行ったあの日だった。僕があなたとの心の距離を近付けていた頃、妻は僕以外の男と逢っていたのだ。

「一線を越えてから、最初は航くんに対しで罪悪感があった。でも、だんだん感情が麻痺してきて…いままで病気で好きなことができなかったのだから、お洒落をして男性の友人と会って何が悪いんだって。……航くんに、彼と逢っているのを咎められた時、私は意地になってしまっていた。だけど変なの。私、嬉しくもあったのよ」

「『嬉しい』?」
僕は妻の本意が分からず、聞き返した。

「航くん感情を剥き出しにして怒ったじゃない。あの時『私が好きになった、真っ直ぐな言い方をする航くんが戻ってきた』って思ったの。私の病のせいで、航くんは腫れ物を扱うように私に接するようになっていたから。でも、私はそれが一番淋しかったのよ」

僕が、妻を傷つけまいと我慢していたことが、妻を悲しませていたのだ。


航さんと実咲さんのことを息子さんが30年後に語っています。


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