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【まとめ用】紫陽花の季節、君はいない 1〜11話

 2021年5月半ば。どんよりとした曇り空。
 今年の梅雨は、6月を待たずに到来しそうである。

夏越なごしくん、そんなに空を見上げていたら首が痛くなるわよ。」
 柊司しゅうじの部屋のベランダから空を眺めていた俺に、あおいさんが話し掛けてきた。

 あおいさんは、お腹の子がかなり大きくなってきている為、産休に入っている。
 昨年よりも大学院は対面授業は増えたものの、今日みたいにオンライン授業の日は、空き時間に家事を手伝いに来ている。

「あおいさん、洗濯物取り込み終わったよ。」
「ありがとう、夏越くん。とても助かるわ。」
 俺は洗濯かごを持って室内に入り、ベランダの扉を閉めた。

「あおいさん、お茶淹れるからコンロ借りるよ。」
 俺はガスコンロのスイッチを押して、やかんでお湯を沸かした。

「夏越くんがいると、沸かしたてのお茶が飲めるから嬉しいわ。」
 あおいさんは極度の料理音痴で、ガスコンロを炎上させた過去がある為、一人の時は調理が出来ない。
(俺も料理は苦手だが、カップ麺を作る位は出来る。)

 俺はたんぽぽ茶のティーバッグを入れたコップに優しくお湯を注いだ。
 たんぽぽ茶(別名たんぽぽコーヒー)は、あおいさんの為に柊司が買ってきたものだ。

「いただきます。」
 女性が苦手なのに、あおいさんとこうしてお茶を飲む日がくるなんて1年前は思いもしなかった。

 あおいさんは、俺の友人・柊司の奥さんである。
 以前は白い服が定番でボブカットだったけど、今は髪をヘアゴムでひとつに纏めている。

「あおいさん、髪伸びたね。」
「今はこの子がいるから、長時間のお出掛けは控えているの。ここまで髪を伸ばしたのは久しぶりだわ。」
 あおいさんは、優しくお腹を撫でた。
 この子が生まれる頃には、安心して出掛けられる兆しが見えるといい。

「きっとこの子は、夏越くんのこと大好きになると思うわ。」
「え…何で?」
 俺は、ドキッとした。一瞬、「あの事」が頭をよぎった。
「だって、柊司くんの子どもだもの。うふふ。」
「ああ、なるほど…。」
 あおいさんが「あの事」を知っているわけないではないか。

 柊司は何故か俺のことが大好きだ。
 アイツが俺と同じ大学に通っていた頃は、恋人疑惑があった程だ。
(その頃には、もう柊司はあおいさんと付き合っていた。)

 あおいさんの家事を手伝うことになったのは柊司に頼まれたからなのだが、それは彼女の為だけでなく、俺のことを心配してのことだって分かってる。


 俺は1年近く前、「彼女」を失って憔悴しきっていた。
「彼女」と俺の関係は他人には言えなかった。
「彼女」は人間ではなかったからだ。

 アパートの隣人である柊司は、大学時代から料理音痴な俺に夕飯を作ってくれていたのだが、夕飯すら食べなくなった俺をとても心配していた。
 でも、当時の俺は周りが見えてなかった。

 ろくに食事を摂らない日が続き、とうとう俺はアパートの自分の部屋で倒れてしまった。

 仕事から帰った柊司が発見した時は、俺はPCのデスクに突っ伏していたらしい。
 大学院のオンライン授業を受けようとして、スタンバイしたところで意識を失ったようだった。

 目を覚ますと、そこは病院だった。
 腕には栄養剤を流し込む為の点滴が繋がっていた。

 その時、病室にはあおいさんが付き添っていた。
(柊司はちょうど食事をしに席をはずしていたと、後で聞いた。)

 いつもどこかふわふわして頼りないあおいさんだけど、この時は本気で怒られた。

「私も柊司くんも、本気で心配したんだから!」
涙を流しているあおいさんを見て、俺は周りの優しさにようやく気付くことが出来た。

「ごめん、あおい…さん。」
 栄養失調でろれつが回らなかった口で謝った。
「意識が戻って…本当に良かった。」
 あおいさんは、俺の点滴に繋がれていない方の手をぎゅっと握り締めた。

 しばらくして、柊司が病室に入ってきた。
「夏越~!お前何回空腹で倒れるんだよ~!」
と、男泣きされた。
 ちなみに空腹で倒れたのは、2回目である。

 俺は一晩点滴を打って、翌朝退院した。
 タクシーを降りて、アパートの自分の部屋の前に辿り着くと、柊司が仁王立ちしていた。
(柊司はガタイが良いので、本当に仁王かと思った。)

「また倒れられたら嫌だから、しばらくウチに泊まれ!」
と、俺の部屋の鍵を引ったくって柊司は出勤していった。

 俺は自分の部屋に入れないので、仕方なく柊司の部屋に入った。
「夏越くん、お帰りなさい。」
 出勤前のあおいさんが、出迎えてくれた。

「柊司くんが、栄養たっぷりの朝食とお昼を用意したから、ちゃんと食べてね。絶対よ!」
 あおいさんはそう念押しして、仕事に向かった。

 柊司が用意した朝食は、栄養と消化に配慮して野菜をペースト状にしたお粥だった。
 まだ温かいそれを食べたら、身体が温まってきた。自分がとても冷えていたことを自覚した。

 この日もオンライン授業があったのだが、柊司が俺の部屋の鍵を持っていってしまったので、欠席することになってしまった。

 食べ終わった食器を洗ったら、することが無くなってしまったので、俺はソファーで寝ることにした。

(同じアパートなのに、俺の部屋とは匂いが違うんだな。
何ていうか、幸せそうな雰囲気だ。)
 そんなことを思いながら、眠りに落ちた。

 俺の実家は、幸せな家庭とは程遠かった。
 実母は俺を産んですぐに亡くなった。
 父は俺のことに関心がなかった。
 母親の従妹でもある義母とは、折り合いが悪かった。
 弟もいたけど、義母が近寄らせなかったから良く知らない。
 実家に俺の居場所は無かった。

「彼女」と出逢って、やっと居場所を見つけたと思ったのに──

 彼女「紫陽しよう」は、銀色の長い髪が美しい、八幡宮の紫陽花の精霊だった。
 俺が大学進学の為に実家を出て、この街に住み始めた年の6月に出会った。

 母親の愛も知らず、女性が苦手な俺だったけれど、彼女の純粋さに惹かれていった。
 彼女も俺の想いを受け入れてくれた。

 しかし、この恋は禁忌だった。人間と精霊、存在が違うのだ。
 紫陽は花の咲く時季以外は眠りに就いてしまう。
 それだけではない。精霊は境内を出ると、消滅してしまうのだ。
 紫陽と俺は6月の八幡宮の中でしか逢えなかった。
 それでも、俺は紫陽と居られて幸せだったのに。

 去年の6月、俺は彼女の様子が奇怪しいことに気付いた。
 俺が紫陽との未来を語ると、複雑そうに微笑むのだった。

 そしてあの夏至日食の日、俺は彼女を失ってしまったのだ──

 眠りから覚めると、雨音が聞こえてきた。
 紫陽との会瀬は、梅雨の時季だけあって雨の日が多かった。
「ナゴシ」
 もう聞くことの出来ない彼女の声。
 俺はあれから、人知れずどれ程泣いただろう。

 外の空気が吸いたくなって、ベランダの戸を開けると、洗濯物が干してあった。
 ここが自分の部屋でなく、柊司の部屋だということを思い出した。
 急いで洗濯物を取り込んだので、びしょ濡れにはならなかった。

 秋の彼岸頃まで、俺は柊司の家に厄介になった。
(オンライン授業で使うノートPCは柊司が俺の部屋から運び出してきた。)
 この時に俺の家事のスキルは、柊司によって少しだけ磨かれた。
「もう空腹で倒れるなよ!」
 柊司に念押しされて、俺は自分の部屋に帰ってきた。

 俺は部屋がとても荒れていることに気付いた。
 倒れる直前までの精神状態がそのまま現れていた。
 帰ってきてまずやったことは、片付けだった。

 柊司という男は、料理だけでなく家事スキルも高い。
 本人曰く、両親共働きで自分以外は女きょうだいで、家事を協力しあいながら育ったからとのこと。
 世話好きな性格は、家庭環境からなのだろうか?

 口調がざっくばらんだから気付きにくいが、あいつはかなり出来るやつだと思う。
 悔しいから言わないけど。

 柊司の家にいる時ゴミの分別まで叩き込まれたお陰で、荒れていた俺の部屋はみるみるうちに綺麗になった。
 開け放った窓からは、爽やかな秋風が入ってきた。

 秋が過ぎて、柊司の誕生日にあおいさんが妊娠したと報せを受けた。
 もしかして、俺は新婚生活を邪魔していたんじゃないか?
 俺は自分しか見えていなかったと心底反省した。


 2021年3月3日。
 俺は八幡宮にいた。
 柊司とあおいさんの代わりに、戌の日の腹帯を受けとる為だ。

 咲き誇る梅を見て、春に此処に参拝するのははじめてだと気が付いた。
 俺にとっては、八幡宮は梅雨の紫陽花なのだ。

 以前、紫陽が「梅さと」という白梅の精霊の話をしていた。
 此処とは別の神社の精霊だったが、江戸時代の藩主と恋をした。なかなか逢えない日が続き、彼女は藩主の元に行こうと境内を出ようとした。
 神社の内でしか存在出来ない彼女は消滅してしまった。
 話を聞いた当時は、紫陽が同じような目にあうとは思わなかった。

 祈祷を済ませた腹帯を受け取り、俺は「御涼所」にあるケヤキの木に向かった。

涼見すずみ姐さん。」
 俺は木に話し掛けた。
「──夏越、お前か。」
 着物を着た女性が姿を現した。彼女は紫陽と仲の良かったケヤキの精霊である。

「涼見姐さん、久しぶり。」
 俺が挨拶している間、姐さんは俺の手元をじっと見ていた。

「それは、八幡宮の腹帯だな。
まさか、お前紫陽をさっさと忘れて子が出来たのか?」
 姐さんが軽蔑の眼差しを俺に向けた。

「…ち、違う!誤解だ!!
これは、柊司…友人の奥さんの代わりに受け取りに来ただけだ!
今は、外出するにもリスクが高いからさっ。」
 俺は懸命に弁明した。

「ふん、言い訳をすればするほど胡散臭いが、お前の性格を考えると、そんなことして私にわざわざ会いに来る訳ないな。」
 どうやら誤解は解けたようだ。

 俺は以前より「御涼所」が明るいことに気付いた。
「姐さん、何だか此処明るくなった?」
「それは、お前が何時も梅雨の時季ばかり来るからだろう。」
「俺、天気が良い日にも来てたよ。」
 俺は勢いで天を仰いだ。涼見姐さんの本体であるケヤキの木に葉が無かった。

「姐さんが禿げたー!」
 枝を指差しながら俺が叫ぶと、姐さんから張り手された。

「精霊とはいえ、おなごに『禿げ』とは失礼な!ケヤキは落葉樹なのだ。」
「すみません。」
 何だか懐かしいノリだ。違うのは紫陽がいないことだ。

「そういえば、紅葉くれはは、どうしてる?」
 俺は紫陽のもう一人の仲の良かった精霊の姿を探した。
「紅葉はお前に厳しく当たった手前、気まずいのだ。察してやれ。」
「そうか。」
 俺は苦笑いした。でも、紅葉はちょっと苦手なので会えなくてほっとした。

 俺の腹帯の入った袋を持っている方の腕が急に重くなった。
 下を見ると、1歳位の子どもが袋を引っ張っていた。

「何でこんなところに子どもが?」
 俺はこの子どもの脇に手を入れて持ち上げた。
 小さな見た目に反して、ずっしりと重みを感じた。
 急に持ち上げられたためか、きょとんとしていた。

「この童は、この八幡宮の宮司の息子だ。
名を『國吉くによし』と言う。
最近歩けるようになったので、勝手に出てきてしまったようだな。」
 涼見姐さんが子どもの頭を優しく撫でた。
 姐さんのここまで穏やかな表情は、はじめて見た。

「夏越、お前社務所まで國吉を送り届けてくれぬか。
御涼所は見晴らしはいいが、柵はあっても崖になっていて危ない。」

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