【コラボ小説「ただよふ」番外編】陸《おか》で休む 7 (「澪標」シリーズより)
張り詰めた空気の中、口を開いたのは澪さんの母親だった。
「──澪は、この男性で本当に良いのね?」
年老いているだけではなく、前妻を忘れられないと言っている男のもとに嫁ぐという娘を心配するのは、親として尤もなことであった。
澪さんの、母親への返答は、毅然としたものだった。
「私は、家族を必死で守り抜いてきた航さんだから好きになったの!そんな彼が、心から私を必要としてくれた。私は彼と生きていく。人生の航海が終わるまで。それだけは、お父さんやお母さんがどれだけ反対しても譲れない!!」
母親と父親は顔を見合わせた。おそらく、娘がここまでハッキリと意志を表すなんて思いもしなかったのだろう。
母親は大きく息を吐き、澪さんを見据えた。
「分かったわ。そこまでの覚悟があるのなら再婚しなさい」
母親の意見に同意すると、父親も頷いた。
「ありがとうございます!娘さんは僕の残りの人生全てをかけて幸せにします!」
僕はご両親に何度も頭を下げた。
父親が突然、「そうだ!」と声を上げた。
「母さん、海宝さんに土産を持たせないと。澪、母さんの外出許可をとって、近くの和菓子屋まで母さんに付き添ってくれないか?」
僕は「どうかお構いなく」と言おうとしたが、母娘に土産を買いに行かせることは口実で、僕と2人きりで話したいと、父親の目が訴えていた。
「すいません、ご馳走になります。澪さん、お義母さま、気を付けて行ってきてください」
僕は口角を上げた。
「航さん、すいません。ちょっと行ってきます!」
杖をついて、ゆっくりと歩き出した母親を支えながら、澪さんは僕たちがいる部屋を出ていった。
父親は、2人が乗った車が施設を出たのを窓から確認すると、話を切り出した。
「さあ、本題に入りましょうか。海宝さん……あなたはかつて、澪と不義の仲だったのでしょう?」
澪さんに似た聡明な目が、僕をじっと見ていた。過去の関係を隠し通すことは不可能だと、僕は確信した。
「……気付いていらっしゃったのですね」
僕は緊張で握った拳に汗をかいていた。
「やはり、そうでしたか。長年……いろんな生徒、そして家族を見てきましたからね。それに私は、国語教師だったので、言葉の端から推察するのは得意なんです」
僕は、若い頃の澪さんが読んでいた小説、井上靖の「猟銃」が、父親の蔵書の中にあったことを聞かされていた。澪さんの読書習慣は父親から受け継いだに違いない。あの小説は三通の手紙によって、不倫の恐ろしさを感じさせる内容だったが、今は目の前にいる婚約者の父親の視線がただただ恐ろしかった。
「大切な娘さんと、妻子ある僕が関係を持ってしまったこと、心中は穏やかでないこと、お察しします。申し訳ありませんでした」
僕は父親に心から謝罪した。
「海宝さん、あなたも人の親だ。もしも自分の子どもが同じようなことをしたら、全力で引き離そうとするでしょう?きっと30年前に娘があなたを連れてきたとしたら、私は許せなかったに違いありません。しかし──」
「今は『そうではない』と?」
父親は静かに頷いた。
「澪があんなに自分の意志をぶつけてきたのは、はじめてでした。『あの頃』から、澪は家族の顔色をうかがうようになってしまった。……海宝さん、澪から鈴木家のことは聞いていますか?」
「……教師の家系と聞いています。父方、母方のお祖父様は校長先生を務めるほどの優秀な方で、両家のお祖母様やご両親も教師だったと」
僕は敢えて、澪さんが家族に抱えていた葛藤は言わずにいた。澪さんが家族に隠そうとしていることを、僕が勝手に話すことは澪さんへの裏切りだと思ったからだ。
「そう。私の家も、妻の家も、地元で教師或いは公務員になるのが当たり前でした。私も、そのことについて何も疑わず、教師になりました」
「……だけど、澪さんは教師にはなれなかった。」
父親は静かに目を閉じ、ゆっくりと目を開けた。
「もはや、『教師になること』が、私と妻の家に代々続く呪いになってしまっていることに、私は気付くことが出来ませんでした。そのことが、妻を苦しめ、澪に重荷を背負わせてしまいました。海宝さん、あなたが澪の終の夫になる覚悟があるならば、どうか話を聞いてくれませんか?私たち家族の話を──」
父親は、僕にとても重いものを託そうとしていた。僕はそのことから逃げるわけにはいかなかった。
僕は「是非伺いたいです」と頷いた。
澪さんが小説を読むシーンは、may_citrusさん原作「澪標」9話にあります。
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