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【コラボ小説】ただよふ 23(「澪標」より)


妻の呼吸が荒くなってきた。暑さのせいだけではない。今まで強迫の症状を我慢していたのだ。

「実咲さん、もう帰ろう!」

「航くん、まだ話は終わってないわ!!」

妻は帰宅を強く拒んだ。僕は妻の話の続きを聞くことにした。

「──コロナ禍になって、彼と逢う回数は減っていった。はじめは、すぐに終息すると楽観していたわ。だけど、芸能人から死者が出たり、新規感染者のニュースを見ているうちに、ウイルスに感染するのが怖くなっていった。不安な気持ちを彼に訴えているうちに、少しずつ距離が出来ていったわ。だけど、その時の私には彼しかいなかった。航くんとは険悪だったし、航平も両親の不仲を見たくなくてほとんど顔を合わせてくれなかったから……」

妻の眉間に深くしわが寄った。家族との関係が険悪なだけでなく、火遊びの相手とも上手くいかなくなっていった妻は、孤独感と新型コロナの恐怖に耐えていたのだ。

「航くんの会社で感染者が出てしまい、あなたも感染したかもしれないと聞かされて、私の恐怖は限界を超えてしまった。本当に怖かったのは航くんのはずなのに、私は自分が感染するのを酷く怯えた。見えない恐怖が、一瞬で私を飲み込んでいった。どれだけ清潔にしても、ウイルスが付着しているんじゃないかって……」

妻の身体が震えだした。僕は抱きしめて安心させたかったが、不潔恐怖の妻には逆効果なのは分かっていたので、ただ様子を見ることしか出来なかった。

「航くんの勧めで、オンライン診療を受けて、全般性不安障害か強迫性障害だろうと診断された時、私は絶望感に襲われたわ。せっかく双極性障害が寛解していたのに、コロナ禍のせいでもっと悪化してしまったのだもの。私は彼に電話で感情をぶつけたわ。ヒステリックに叫ぶ私に、彼は言ったわ。『お前、頭おかしいよ。もう付き合っていられない。もう連絡してこないでくれ』って。私は彼を失い、ようやく家族を顧みた。このまま航くんに見離されたら、私は生きていけない。あなたを繋ぎ止めなきゃって、必死になったわ。だけど、私は繋ぎ止める術を持っていなかった。体は女として終わってしまっているし、妻としての信用も無くしてしまった。別居していた航くんが、私のために帰ってくる度に顔色が悪くなっていって、私はこう思うようになった。『私にそこまでしてもらう価値があるの?』って。航平があなたに『僕が母さんを支えるから大学に行かない』って打ち明けた時、私は自らを終わらせることにした。もう家族の負担になりたくなった。薬を大量飲んだのに、目を覚ましてしまった時は『死ぬことさえ出来なかった』と自分がとことん嫌になったわ」

妻の絶望を思うと、僕は涙が溢れて止まらなかった。

「ごめん、実咲さん。あなたが行動に移す前に話を聞いていれば……」

「ううん、航くんはその時出来る最善を尽くしていたわ。あの時航くんが何を言ったとしても、私の心には届かなかったと思う」

「僕は実咲さんが生きていて良かった。今、こうして実咲さんの話を聞けたから。打ち明けてくれてありがとう……」

僕と妻は、ようやく夫婦としてやり直すスタートラインに立てた。

「……それにしても、実咲さんを誘惑しておいて、傷つけた相手の男、許しがたいですね。過去に婚約破棄したとはいえ、愛した女性に浴びせる言葉ではないでしょう?実咲さん、彼に言いたいことがあるので、連絡先を教えてくれない?」

妻は僕の言葉に目を丸くした。そして、涙を流して笑いだした。

「ふふふっ…、航くん…怒りの矛先がちょっとズレてるわ。妻の不倫相手に敬語…ふふふ」

「実咲さん?何で笑ってるの。僕は怒っているんだけど?」

「うん。航くんが怒ってくれたから、もうあんな男どうでも良くなったわ。あらやだ、マスクが濡れて気持ち悪い…ふふふ。航くん、替えのマスクくれる?」

僕は腑に落ちなかったけど、妻の笑い声を何年かぶりに聞いたので、これ以上相手のことを追求するのをやめた。


僕は妻が病をおして、真実を打ち明けてくれたことを受けて、自分のトラウマと向き合うことにした。

日曜日、僕は志津を弓道に誘った。

「何だか学生時代が懐かしいな。」
志津はゆがけの感触や弓の重さを確かめていた。

「あの頃は、僕が先輩たちと衝突する度に、志津が諌めてくれたよね」

「ハハハ、先輩相手に『納得出来ない』って、よく噛み付いてたよな。航が殴られそうになった時は、本当ヒヤヒヤしたよ」

諌めてくれていた志津の存在の有り難みは、社会人になってから痛いほど感じた。

「志津。今日君を誘ったのは、大事な話がしたかったからなんだ。」

「お?改まって何だ?」

僕のトラウマとは、最初に就職した職場の悪意や嘲笑だった。あのことがあって以来、僕は大切にしているものほど他人に打ち明けることが出来なくなった。僕が心を許して家庭のことを打ち明けられた鈴木みおさんは、それだけ特別な存在だったのだ。だけど、あなたはもういない。

「……僕の妻のことなんだ。」

志津は僕の敵ではない。だけど、妻の病のことを話したら、志津の態度が変わってしまうのが怖かった。

僕から話を聞き、事情を把握した志津は、おおらかな笑みを浮かべた。

「やっと話してくれたな!」

「志津、気づいてたの?」

「さすがに細かい事情までは分からないけど、嫁さんのことで何か隠してるのは感づいてたさ。家族を優先する割に、不自然なほど話題にしないし。でも、航の性格上、無理に聞き出そうとしたら、頑なになるだけだから、自分から話すのを待ってたんだよ」
志津は僕よりも何枚も上手だった。

「だけど、そういう事情を抱えているのはお前だけではなさそうだよな。わざわざ言わないだけで、きっといる──」


僕が打ち明けてから、志津はコロナ禍が落ち着いてからも、希望者はオンラインを通じて場所を選ばず仕事が出来るよう、会社に働きかけてくれた。それは承認され、僕は妻の治療と仕事を両立しやすくなった。

Zoomを通じて、家族に志津を会わせた。豪放磊落ごうほうらいらくで僕と正反対な志津を見て、妻は「航くんって、意外性の固まりよね」と笑った。

航平と志津は僕がいない時でも会っていて、家族に言いづらいことを相談に乗ってもらっていたようだった。志津に感化され、航平は明るい性格になっていった。

変わっていく息子を見て、あなたのマイナス思考を形成したのが家族なら、仕事の自信を育て上げたのは志津なんだと実感した。


強迫性障害については、may_citrusさん原作「澪標」の本編にあたる作品「ピアノを拭く人」で描かれています。


次回、「ただよふ」最終回になります。

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