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【コラボ小説】ただよふ 3(「澪標」より)


入社して2ヶ月が経った頃。

妻は東京の生活に慣れてきたのか、沈み込むことが少なくなっていた。
先日は同窓会に出席出来たと喜んでいた。

航平の方は、思春期だからか言葉少なになっていた。
受験生なのに大阪から東京に越してきたことを、息子はどう思っていたのだろう。

航平の誕生日の少し前。
学校から帰ってきた航平の制服のボタンが取れかかっていた。

「航平、ボタンが取れそうだ。
付け直すから貸しなさい。」
航平は制服を脱ぐと、僕に無言で手渡した。

僕は裁縫セットをリビングに持ち込み、眼鏡をかけ、針に糸を通した。
「父さんは…自分でボタンとか付けられるんだね。」
「ああ、弓道着のほつれとか自分で直してたからね。」
「ふーん。」
言葉は少ないが、父に興味を抱いてくれるのは嬉しかった。

「航平…誕生日に欲しいものはある?」
ボタンを付けながら、息子にたずねた。
「…別に。母さんや父さんが笑っていれば。
強いていえば、お小遣いをアップして欲しい。」
息子に気を遣わせていることに、僕は心を痛めた。


航平の誕生日当日。
僕はなるべく早く帰ろうといつもより張り切って仕事をしていた。

こういう日に限って、トラブルは起きるものだ。
契約数を急激に増加させてしまったことで、試験運営部の土屋課長ともめてしまったのだ。
人員不足なので新規契約を一旦ストップさせてほしいと言われてしまった。

納得は出来なかったが、志津にも現時点で試験運営部と事業所に負担をかけているから無理をするなと諭されてしまった。

入社して日が浅い僕は、契約を増やすことにばかり気をとられて、会社への配慮が出来ていなかった。

新規開拓は諦めるべきなのか…落胆しかけたその時、あなたの声が暗雲を吹き飛ばす風のように土屋課長を説得し始めた。

「私は運営部に4年いました。私の経験から、ある程度経験を重ねたスタッフに監督員を任せると、たいてい上手くデビューしました。そのときは、監督補助員にベテランスタッフを配置したので、危ういときはサポートできました。これから秋まで、国家試験が多いことを考慮すれば、人材の増員は可能だと思います」

その時の彼女は、僕に好意を持っているからではなく、本気でそう考えたのだと僕には分かった。

彼女の説得で風向きが変わり、志津が解決策を出して、問題は収束した。

自分の意見を恐れずに切り出せる。
この女性ひとは、本当は芯が強いんだ。
思い違いをしていたことを僕は反省した。

帰り道、交差点で信号待ちをしていると、あなたが話しかけてきた。
あなたが会社の外で僕を見つけてくれたことが嬉しかった。
僕が先程助言してくれた礼を伝えると、あなたは謙遜した。

信号が変わり、僕たちは人の流れに押し出されるように信号を渡った。
駅に続く道の街路樹の若葉の香りが鼻孔をくすぐった。
夜の帳が下りはじめ、街のネオンが彼女の形の良い横顔を照らしていた。

「鈴木さんには借りを作ってばかりですね。いつかお返しできればいいのですが……。」
それは義理の言葉で誤魔化した、本音だった。
「有給休暇とか融通する」と言葉を継ぐことで、僕が義理で言っている、あなたがそう解釈してくれればその方が良かった。

でもあなたは僕の意図を越えてきた。
「これから、一杯だけご馳走していただくというのは、いかがでしょうか?」
あなたの誘いに一瞬心臓が高鳴ったが、息子の誕生日がすぐに頭をよぎった。

あなたは僕が即答しないことを訝しんでいるようだった。
僕は「今日は息子の誕生日だから、別の日に埋め合わせさせてください」と言えば良いだけだった。
しかし、口から出たのは「では、一杯だけ行きましょうか」と言う言葉だった。

僕は敢えてロマンチックのロの字もない串カツ専門店の居酒屋を選んだ。
ここなら店の回転が早いし、店の喧騒で僕もあなたに変な気を起こすことはないだろうと思った。

しかし誤算が生じた。
狭小な店内に小テーブルが所狭しとならんでいるレイアウトのせいで、あなたと膝がぶつかるくらい近づいてしまった。
店の喧騒のせいで、顔を近づけないと声が聞こえないというのもあなたとの距離を近づけてしまった。

メニューを眺めてうつむき加減になると、あなたの長い睫毛が強調された。
声が聞こえにくいこともあって、あなたの唇の動きに集中していたら、形の美しさに見惚れてしまった。
体の奥が熱くなってしまうのを感じ、それを打ち消すように店員を呼んだ。

ろくにメニューは見ていなかったが、頼むのはいつもの「あれ」に決まっていた。
「鈴木さん、先に注文どうぞ。」
僕が促すとあなたは大きな声で
「梅干しサワーをひとつ!」
と店員に伝えた。
まさか注文がかぶるとは思っていなかったので、「僕もそれで」という声が思わず上ずってしまった。

「2度も注文するものが同じになるとは驚きました。あなたとは共通点が多いし、様々な面で共鳴できる気がします」
「本当に。何だか不思議ですね」
僕はあなたの熱い視線に耐えかね、畳み掛けるように話し続けた。

僕は次は静かで落ち着いた店に行こうと約束を取り付けていた。
「次もあるんですか、楽しみです」
あなたは心から嬉しそうにしていた。

「お待たせしました!梅干しサワー2人前です!」
店員がやって来て、僕はタイムリミットが差し迫っていることに気づいた。

「無理にお願いしてしまってすみません。これが空になるまでで、十分です」
あなたはグラスをさして言った。僕が迷惑そうにしているように見えたのだろうか。それは決して違う。

「すみません。今日は息子の誕生日で……」
プライベートな話はしないつもりだったが、あなたには真意を伝えねばと思った。

「そんな大切な日だったんですか!? すみません、急いで空けます」
あなたが申し訳なさそうにしていた。
「いえ、もう15で、父親を心待ちにする年齢じゃありませんから」
「でも、ご家庭でパーティーをするんじゃないですか? プレゼントは選びましたか?」
「8時からパーティーの予定ですから、7時に乗れば間に合います。息子は、ここ数年は、プレゼントより、現金がいいと言います」

あなたに心配をかけまいとそう言ったが、数分でも遅れたら妻のうつが出て来てしまう恐れがあった。
誕生日の航平の為に、それだけは避けたかった。

あなたは僕の事情を知り、顔が曇ってしまった。
申し訳ない気持ちでグラスを傾け、僕は梅干しサワーに口を付けた。

忙しなくつまみを口に放り込みながら、周囲に配慮が足りないことを反省する僕に、あなたは「十分周りに配慮している」と言ってくれた。

新たなクライアントを開拓するのに採用された僕は、あなたにとって負担になってはいないか訊ねてみた。

「とんでもないです。新しい仕事に、毎日わくわくしています。こんなにやりがいを感じているのは、入社して初めてです」
そう思ってくれたことに、僕は安堵した。

「そう言っていただいて、本当に嬉しいです。実は、僕も、新しいことを始めるのは、航海に出るようで胸が高鳴るんです」
「航海……。海がお好きなんですね。そういえば、香水もサムライ アクアクルーズでしたね」
「ええ。父が商船に乗っていたので、子供の頃から海は身近でした。アクアクルーズは、日常は巡洋航海のようだと思っている僕に似つかわしい気がします」
その航海をあなたもわくわくしてくれているのだと思うと、更に胸が高まるのだった。

僕は失礼だと思いつつも、腕時計の時刻を確認した。
彼女は時間がもうないことを察して、帰り支度を促してくれた。

「慌ただしくて、本当にすみません。部下にあなたがいてくださることで、毎日救われています」
僕は大急ぎで会計を済ませあなたと別れ、駅まで全力疾走した。

帰宅した時、8時を5分オーバーしていた。
僕は怒られるのを覚悟してから、家に入った。

リビングにいたのは、航平だけだった。
「航平、ただいま。遅れてごめん。」
「…別に。父さん、串カツの匂いがする。」
僕は内心ドキッとしたが、
「今日仕事のトラブルをフォローしてくれた部下に、一杯奢ってきたんだ。」
と言い訳をした。
嘘はついていないものの、罪悪感が胸の中に広がった。

僕は妻の不在に気がついた。
「航平、母さんは?」
「予約したケーキを取りにいったまま、帰ってきてない。」

数分後、妻がご機嫌で帰って来た。
「ごめんなさい!ケーキ屋で知り合いに会って、話が弾んでしまったの。」
そんな妻の様子に僕は安堵した。

僕はこの時気付けなかった。
海宝家の運命の航路が外れだしたことを──


may_citrusさんの原作「澪標」、こちらも併せて読んでいただけると、物語をもっと楽しめます。


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