靖の話

なんでなの、と問い詰められても、俺は返事のしようがなかった。
ただ、止めたくなっただけだった。意味なんて無い。
 他に誰も居ない放課後の教室で、ただ裕美を見つめていた。その後ろの大きな窓の外に、曇り空が広がっている。彼女が入学してきたころ花の散っていた樹も葉桜となり、今はうすぐらい影を風に揺らしていた。
 毎日のように部活に一緒に出ようと誘われ、なんだかんだと理由をつけて断っていたが、もうそろそろ限界だった。
 俺、もうテニス止めたんだ。高校入ってから、部活は何もやってないんだ。
 「だって、一緒にがんばろうって……、!」
 裕美は慌ててうつむいて、涙を隠した。
 あんたなんかに泣いてるところを見られたくない、というところだろう。
 「……落ち着けよ」
 彼女の両肩に手を置く。
 「やだ、放して」
 いやいやするように彼女は体を揺する、弱々しく。
 その様子を見ているうちに俺は言い訳を、思いつく。
 「だって、部活なんかやると、会う時間が少なくなるだろ? やっと一緒に帰れるって思ってたのにさ」
 「それは、そうだけど……」
 俺の手は脳の信号に正しく従がって、彼女の肩を抱きすくめると、茶色いショートカットの髪を撫で始めた。てのひらに、ゆびのあいだに、するすると髪の毛が巻きついては離れる。なにを話していたのかさえ、忘れかけた。
けれども裕美は違ったらしい。
 「……でも、どうして、教えてくれなかったの? 部員じゃなかったなんて、全然知らなかった」
 「それは……」
 口ごもると、裕美は俺の学ランの胸を両手で押しやって、すこしずつ視線を上げる。
 「……やっぱり、やっぱりずっと、あたしに嘘をついていたって、ことよね?」
 「そんなこと」
 反論の余地は無かった。 
数秒間、涙の残る顔で俺をにらみつけて。
 「……あたし、ひとりで帰るから」
 裕美は、当然のことながら振り返ることなく、走って行ってしまった。階段を駆け下りる音が聞こえてきて、俺はやっと我に返った。
 
 裕美とは、俺が中3の頃からのつき合いだから、そうか、丸二年か。二年も続けば上等だよなぁ。
悪友たちの顔がぼんやりと思い浮かぶ。
 あいつらが二年間も続いたなんて話は聞いたことがない……。でも、このことを知ったら、さぞかしうるさいだろう。裕美は素直で可愛いって、一番人気だったもんな。きっと、すぐに伊藤あたりが裕美を口説きはじめるだろう。
 さすがに街をブラブラする気にもなれなくて、家のドアの鍵を開ける。おふくろは買い物に出ているらしく、誰も居なかった。狭い階段をどかどかとわざと音を立てて上り、部屋に入る。脇に挟んでいたカバンを放り出して、ベッドに倒れた。
 「ぐわぁっ」
 両手を上に向かって突き出し、大声を出す。
 なぜかはわからない、俺は最近変だ。考えてみれば、テニス部に入らなかったことだってそうだ。特に意味なんか、ない。ただ……、ただ……。
 中学の頃はテニスに燃えてた。小学生の頃やっていた軟式よりも硬式のテニスの方が楽しくて、毎日コートに出ていた。トップスピンやスライスの練習のしすぎで、どうしてもフラットのストロークがうまくいかなくなって、嫌いな顧問の先生にも指導してもらった。そのせいで先輩になんて言われようと、全然平気だった。2年になって、裕美となんとなく仲良くなったのも、テニスをやっていたからだった。
 あいつはボレーが下手くそだったっけ。怖いとか何とか言って、すぐに避けちまう。あんなんじゃあ、だめなんだ、もっと前に出て、バシッと……。
 でも、もう教えてやる必要もない。あいつはひとりで勝手にテニス部に入ればいいんだ。またいちから、あの面倒くせー素振りをやっていればいいんだ。
天井の模様は妙に細かくて、それでも見つめ続けていると、目がチカチカしてきて目をつむった。すぐに裕美の残像が現れる。
高校に行ってもテニス部入るなんて、俺がいつ言ったんだよ? おまえの言うとおりにしなきゃいけないのか? 
 裕美が俺の胸を押して顔をあげる。
 違う。そんなんじゃない。
 裕美の目は潤んでいた。
そんなに泣くほどのことなのか?
 違うよ。そんなことじゃないの。
 じゃあ、なんなんだよ?
 俺がキレると、幻は消えた。

 銀杏の葉の黄色が好き、と裕美は去年言った。
遊歩道の落ち葉の上を、跳びはねるように歩きながら言ったんだ。彼女は、校内の桜のとなりに寄り添うように銀杏が立っているのをもう知っているだろうか。銀杏もまた、窓際の席からならばよく見える。
 ちらちらと落ちていく葉はそのほとんどが、茎の近くだけ、きみどり色をしている。手にとって確かめることもないまま、きっとこの秋は過ぎていくんだろう。
 「清水―、おまえ種目何にすんだよ」
 「そういうおまえはどうすんだ」
 「オレねー、テニス」
 伊藤はそう言って、俺のとなりの机の上に座りやがった。
 「昨日、東門のところで、裕美ちゃんに会ったんだ」
 にやにや嬉しそうにしてやがる。
 「伊藤先輩はやっぱり、球技大会の種目はテニスを選ぶんですかってさ」
 「なんだって」
 「あ、なんだよ、マジな顔しちゃって。もう別れたんだろ」
 そうさ、どうせもう半年近く、ろくに口聞いてねーよ。
 「やっぱ、得意種目やるしかないよなー、人気でるぜ、マジでやると。こういう時、部活やってなくて、得意種目あるといいよな」
 「……おまえ、それが狙いだったのか」
 「ったりまえだろー。中学の頃と違って、普段の練習なんか女子のみなさんは見ないからさ、ほら」
 「……」
 「シカトすんなよ」
 「わかった、俺はやる。テニスにする」
 「え。おまえ出んの? じゃあ、オレ、他のにしようかな」
 伊藤は切り替えが早いうえに、頭も良い。同じクラスで直接あたらなくても、俺と奴とじゃあ、雲泥の差だ。もし、となりのコートで試合をしたら、女子にもてるなんてとんでもない。しかも、俺はロードワークだけは止めてないから、体力には自信がある。
 「でも、どうしたんだよ、急に」
 「うん、ちょっとな」
 球技大会は、三学年合同で開催される。一年生の裕美だって、うまくすれば俺の試合に来れるだろう。マジな試合を見てもられば、俺が裕美にテニスを教えたりしたことを忘れたわけじゃないと、わかってもらえるだろう。
 それに。
 それに、球技大会は裕美の誕生日の次の日だ。ついでのフリをして電話できる。
 そう思いつくと、俄然に張り切ってきた。中学の時に戻ったみたいだった。
 練習でくたくたになって帰っても、早く壁打ちしたくて、うずうずして寝つけなかったあの頃。毎朝、六時から学校で練習をしていると、いつのまにかベンチに置いてあったタオル。聞かなくても、裕美の丸い文字で〈清水先輩へ〉とメモが付いていたっけ。
 「よし、やるぞ」
 俺は立ち上がった。
 「どーしたんだよ、オイ」
 「おまえもつきあえ、ランニングだ」
 「なんなんだよ、なんでおれまで……なぁ、オイ、しみずー、もう授業、はじまるぞー」

 俺はその日、落ち葉の舞う校庭を三十周した。

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