円位と俊恵

(円位は西行法師、俊恵は俊恵法師のこと。共に百人一首に歌がある。このお話はもちろんフィクションです)

 円位というのは以前から噂の人物ではあったが、先日、訪いを告げる文が届いた事で、禅寺であるはずのこの庵も騒然としている。もちろん、用を足しに裏手に出た時の話だ。
 「おい、なんとかいう奴が来るだろ、綺麗で優秀で家柄も良くて、官位まであるっていう」
 「ああ、それでいて出家したとかいう」
 「それよ。上臈の女房に失恋したんだと」
 「へぇぇ、それはそれは」
 「高尚であらせられる」
 高位な僧たちが宮中の祈祷で出払っているのを良いことに、下卑た笑いを隠しもせず、大声で笑いながらこちらへ戻って来るので、思わず私は物陰に隠れた。
 上臈女房に情けをかけられたは良いが、それだけ、ただひと夜だけだったという噂である。男性から見れば失恋と見られても仕方があるまい。しかし、貴族の女子(おなご)の立場で言えば、一生に一度の思い出かもしれないのだが。
 「そこの者」
 つらつらと男女の機微について考えこんでいると、優しく声を掛けられた。
 明るい辺りに美しい僧が佇んでいる。光が後光のように見え、思わず手を合わせそうになる。
 「のぅ、僧侶は他に誰も居らぬのか」
 先程の者たちとはすれ違わなかったのか、それとも見かけておいてその言い草なのか。
 「どちら様でいらっしゃいますか。私は俊恵(しゅんえ)と名乗っております」
 「円位(えんい)だ。案内を頼めるか」
 やはり円位その人であった。

 私たちは皆と同じようにしばらく共に寝起きし、しかし碌々話す間も無く数日が過ぎて行った。円位さまは、口さがない僧たちに隙を見せたくないのだろう。私もそのようにわかってはいる、わかっているが歯痒くて落ち着かなかった。
 出家などせずとも文武両道、才能を発揮してきらきらしく生きて行けるのに、何故に僧侶となったのか。聞けば、歌の才までお持ちだとか。嫉妬にも似た気持ちで円位さまの後ろ姿を度々眺めていたが、どうにもわからなかった。
 「俊恵どの」
 早朝、洗濯を終えて振り返ると、円位さまが立っていらした。盥を代わりに持ってくださる。
 「俊恵どのとはお話したかったのだが、時があまりに無くて、話しかける事も叶わぬ」
 「時がないとはどういう、」
 首を傾げると、円位さまは私に並んで歩きながら仔細を説明した。
 出立の日が明後日だというのだ。
 徳の高い方が明日にならねば寺へは戻らぬので、それを待ってまた旅に出られるという。経典の写しを終えてまた次の禅寺へ、そうか、そのように忙しい故に隙も無かったのだろうか。
 「そなたとは、ゆるりと話してみたいと思っていた。夕餉の後、この辺りまでいらしてくれぬか」
 「私は今でもかまいませぬが」
 正直に言うと私は拗ねていた。写経くらい手を貸す事もできたのに、何故言ってくださらなかったのか。
 円位さまは苦笑いをして、それから盥を足元に置き、ぼんやり見ていた私の肩を抱くように引き寄せた。
 「え、えんいさま、何をなさいます」
 大声を出しそうになった私の口元を押さえ、
 「今宵は唐の故事に寄ると、七夕ではないか。そなたと星を見ながら語らおうとおもったのだが」
 確かに、この小川沿いではよく星が見える。しかし、それではなぜ、今も私を離してくださらないのか。
 「わからぬか。私が何故、醜聞を撒いてまで宮中を飛び出したか」
 まさか。
 「僧になりたい気持ちも無論あったが、女子ばかり寄って来て、男には嫌われて」
 「ではあの失恋の噂は」
 「顔見知りの女房に頼んで触れ回って貰ったまでよ。おかげで意中の者から文が来たと喜んでおったわ」
 私は頭を抱えた。円位さまは私から手を離し、盥を持って言った。
 「では後ほど、待っておるぞ」
 「あ、え、その、」

 今宵、私はどうなるのであろう。

     ☆☆☆

 転寝をしていた。‬
 気づいた時には何も覚えてなかった。‬夢で私は仙人に遭い、桃を渡されたのだ。私は桃を食べた。それから眠くなり、目を覚ましてはまた眠った。‬
 夏の昼間である。喉が乾いてとうとう目を覚ました。麦湯でもと立ち上がる。身が軽い。膝も腰も痛くない。夢を思い出し、まさかと手足をよく見れば、皺が無い。私は若返ったらしい。‬
 人生の終焉を感じていた私が、若返っている。信じられない思いで足袋を脱ぎ足の裏まで見た。間違いない。狂喜して、だが喉の渇きにとにかく麦湯を、と厨に行こうとして、間取りが変わっている事に気づいた。どこからか送られてきた仙人の掛け軸も無い。誰の作かはわからぬが、美しい物であったから今朝から掛けてあったのだ。それに真夏でもないようだ。着ている着物も違う。間取りを確かめながら行くと、覚えがあった。これは初めてお仕えしていた禅寺に違いなかった。‬
‪鉄瓶を見つけて、中の白湯を湯呑みに注いで飲む。喉がぐびりと鳴って、しみじみ若さを感じた。こんな乱暴な飲み方をしても咽せない。何がなんだかわからなかったが、ありがたく感じた。‬
 この時期、考えていた事はなんだったろう。今の自分はと言えば、出家してかなり経つのに、世の中と自分は切り離しができないのだと、思い知ったばかりだ。‬
 そうだ、円位さまと出会ったのではなかったか。宵になったら小川の辺りでと誘われ、しかし私は無闇に恐くなって用をわざと作り、避けたのだ。その後も無難に、大人しく生きてきた。ただ一度も則を超える事無く、地味に生きてしまった。
 遠かったはずの記憶を思い出し、深い後悔に襲われ頭を抱え込んだ。あれは七夕(現在の八月下旬)であったが、もう過ぎてしまった事なのか? 彼岸会の前か後か、どちらなのだろうか?
 あの時、私が避けてしまったのを待っていてくれたのか、それとも引き留められたか、円位さまは更に出立を伸ばし、秋の彼岸会の翌日に立った。そしてそれ以来、会う事も叶わず、賑やかしげな噂だけが特に歌に関する噂が流れてきた。どうにも寂しい、置いて行かれたような気持ちを味わうのは二度と嫌だった。
 私は立ち上がり、旅して追いかけるのも辞さない覚悟で寝間を出た。どうやらこの時、私は夏風邪を引いていたらしい。
 夏風邪? 円位さまを避ける為の仮病ではなかったか?
 用事を作ったと勘違いしていたが、記憶が露わになり少しずつ思い出してきた。そうだ、あの時訪いがあって、けれど上衣を引き被ってやり過ごして、
 「俊恵どの」
 記帳の向こうで声がした。
 やはり、仮病であったか、私の阿呆め!
 「円位さま」
 私はもう、なるに任せると決めて返事をした。
 「具合を悪くしていたのではなかったか」
 「もう良くなりましてございます」
 「されど、外に出るのはやめた方が良い」
 「仮病でございます」
 「何?」
 「偽りでございました。あなたさまが少し恐ろしゅうて」
 目をぎゅっと瞑って思い切って言うと、円位さまは頭を掻いた。
 「急であっただろうか。いや、時が少ないと申したであろう」
 「されど、心を決めましてございます」
 「そこまで、そこまで。そのように肩をいからせてまで決めるものでもなかろうに。わしは少し話ができたらと思うたまでじゃ」
 「さ、左様でございますか」
 「ま、何かあるに越したことはないが」
 「円位さま!?」
 「では少し歩かないか」
 草鞋を履き、立ち上がれば円位さまは先に歩き出した。
 やはり、円位さまはそのようなおつもりなのだろうか、もうこの頃は習わしのように衆道があり、あちらこちらで噂など聞いていたが、私も円位さまに会うまでは、まさかそのような事がと思っていた。それに、
 「そなた、前とは別の者のようではないか」
 ふと振り返って顔を覗きこまれ、ぎくりとした。
 この美しいお坊さまは千里眼までお持ちなのか。
 「左様に見えますか」
 「寂しく長い時間を過ごした方と、同じ眼をしておられる。そなたは私と五つほどしか変わらぬ歳のはずだが」
 「私の歳を知っておられるのか」
 「住持(現在の住職の意)に聞いた」
 私の事を気にしてくれていたのかと思うと嬉しくなった。熱くなっていく頬と違い秋の夜は少し冷えていて、袂にいつも入れていた手拭いを引っ張り出した。すると円位さまも倣って同じように首に巻く。
 「ちょうど良い」
 「これは重畳」
 貴族さまのように満足気に誇張して言うと、ふたりして笑った。
 「寂しく長い時間を経て、あなたさまとも隔てる物が無くなったように感じます」
 「そうであるか」
 しばらくすると暗くて何も見えなくなった。かろうじて雲の隙間に見えていた月も隠れてしまい、針のように細かい雨が降ってきたのだった。
 「俊恵」
 円位さまが手を差し出し、私は手を重ねた。
 「どこかに軒でもないものか」
 「夜も更けましたから、帰りましょうか」
 ただただふたりきりになりたくて出てきたが、暗くて目立たなければもう良いのかもしれない。
 帰り道に至って私は思い出した。円位さまは今度はいつ、旅立たれるのであろう。

     ☆☆☆

 襟巻きにしていた手拭いでお互いの頭、眉、額と順に拭っていく。衣を脱がそうと触れて、それでも躊躇していたら、円位さまの手がぎゅっとその手を握ってくださった。私を座らせ、火鉢を出し手早く火を入れた。
 円位さまは袖だけを抜いて羽織ったまま、隣に座り、衣を私に半分も着せかけてくださった。たくましい肌が見える。火に映ってお顔の印影が強く見え、私は揺らめくその様をじっと見ていた。見惚れていた。円位さまはえいっとこちらを向くと、じぃっと私を見つめ、とうとう口吸いをした。唇を触れ合わせ、少しずつ強く押し当て、それから熱い舌で私の唇を這った。

     ☆☆☆
 
 ふと眼を覚ますとまだ灯火があり、円位さまに抱き寄せられていて、暖かかった。
 始まった時と同じように、印影が強く浮き出たお顔をずっと見ていたいと思っていながら、口は別の事を話し始めた。
 「出立は、いつなのですか」
 「明日にでも」
 「!」
 景色ばって見遣ると円位さまはにやりとされた。
 「と思っていた。……これ以上、そなたと会う事も叶わぬのなら」
 私は止めていた息を吐いた。
 「円位さまはやはりお人が悪い」
 「そなたも僧なら、修行と理って旅に出るなど容易い事であろう?」
 追いかけて来いと申すのか。このように約束ができたならそれも都合できよう。しかし、
 「あの時私は仮病を使い、一度はお会いしなかったのです」
 「成る程。……それで、これは二巡目であるか」
 「さすが円位さま、話が早い」
 「そなた、いくつであった」
 「七十八になるところでした」
 「それはさぞ、長い旅であろうな」
 「はい、自分で決めた事とはいえ、待ちくたびれましてございます」
 「それはもしや、掛け軸ではないか」
 「はぁ」
 「仙人に桃を貰ったのであろう?」
 「はっ!」
 「私は三巡目である」
 「なんと」
 「私はとても待ちくたびれた」
 そう言って円位さまは、再び私に唇を押し当てたのでした。
                 終わり

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