魔法陣

呪いが片耳から入り込んできて 鼓動が魔物を呼び起こす 薄手の羽織りを引き被って えいと起き上がる 戸締まりを確かめる 悪い物は入って来られない 皆は寝静まり 呼び寄せる者もいない 程よく冷えた廊下の床 月光が隙間から差し込み 古い家も悪くない ふと気配に振り向けば 足がぬかるみに入り しかし沼であって 安定が消え 外に出ていた方の足に重心を置くが いつの間にか迫って来ていた妻が私の肩を押す いってらっしゃいませ 毎朝の三つ指突く時の顔だなと 思う間も無く 私は闇に包まれた 黒い煙のような 実態は無い 掴むことのできない落下感がして 強い衝撃を背中に感じた 二、三度弾む 背中の痛みが強いが意識は無くなってくれない 仕方なしに起き上がり摩ってみる と同時に手が触れ落ちた何処が畳の間と知る 闇は少しずつ薄れ 朝の強い光が私の身体を貫き 畳にそのまま写っている 影が無い 死んだのだろうか しばらくの後 聴き慣れない声がして 誰かいるのかと立ち上がり 隠れて見れば 珍妙な格好の子どもが おはようと叫び これまた珍妙な男に抱きついている 男は髭面で脂下がり 子どもを抱き抱えて通路を歩いて行った こそこそと後を追うが 足音が無い 陽が透き通るのであれば 隠れなくとも良いか 思案して とにかく付いて行く 扉が目の前で閉まり 取手の感触はしても動かず 通り抜ける 扉も抜けられるのではと試し上手くいってしまった いよいよ私は死んだのだろうか それよりも良い匂いがする 高い位置の配膳 見た事のない食べ物 全て渡来の物のようだ 女の声が食事を促す 先程の男に子ども そして女が渡来の調度に座り 手を合わせている 瞬きをした 子どもがなかなか食べようとしない 男はその目の前に 野菜らしい物を箸で摘んで あやしている デンシャとかなんとか言う すると子どもは口を開け 女が褒めている 振る舞いは庶民なのに 調度は高級だ 食事が済むと男は髭を剃り着替えをし 玄関で朝から女と抱擁をした 口吸いまでした 更に子どもの頬にもした 大きくて黒い袋を押し付けられ出て行った わからぬ 男はそれで良いのか 笑っていたが良いのか 女は茶碗を洗い 子どもが足元に付いており 女は手を止め黒く四角い物の前へ 行き 何かを手に取って触れた 動く絵、いや人、いや、皆目わからぬが 子どもは喜んで見ている その間に女は家事をするらしい 庶民であるが 手伝いを雇う余裕はあるだろうに あのような絡繰りを見せるだけで良いのか 自分の幼き時は乳母と散歩へ 庶民なら近所の子らに頼むだろうに 私の理解を超えた世界だからして 同じにできるとは言えぬと 一旦は腹に納めたものの もやもやと物思う 最後に見た妻の顔 十数年見てきたあれは 子どもたちの眼にも同じ光が 髭面の男の笑顔は 不意に家族に会いたくなって 動揺する どうして帰れば良いかわからぬ 畳の間に戻ると 沼が丸く波を打っている あれに飛び込めば良いと判りながら 飛び込みたくない心持ちがして すると沼に向かって 子どもが走って来て それはいけないと先に飛び込めば 子どもは手前で倒れて泣き出し 私は闇に引き込まれ すまぬとだけ言ってまた 背中を打った いつもと変わらぬ朝だ

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