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止まり木③

翌日、一人暮らしの私のマンションに、母がやってきた。
「春子、大丈夫?」
母の秋子は、父親と一緒に群馬の実家に住んでいる。
私のことが心配で様子を見に行くと、連絡をくれていた。
「うん、少し落ち着いてきたよ。徐々に電車にも乗れるようになってきたし」
「それならよかった。そうね、思っていたよりも顔色もいいし、元気そうね」
私の現状を確認出来て、安心した様子だ。
「ゆっくり休んでいるからね。それにいい鍼灸院にも通っているんだ」
母に、鳥岡鍼灸院のことを話す。
「そう、鍼灸院に通ってるのね。そういえば、夏子おばあちゃんの背中に大きな火傷の痕があって、本人に聞いたら、昔熱いお灸を据えられたことがあるって言ってたわ。あなたも、背中に火傷作ったの?」
「え、そんな火傷を作るほど熱いことをしてたんだ。私の受けている治療は、鍼もお灸も気持ちいいものだよ」
 人一倍痛みに弱い私は、そんな熱い治療だったら通えないなと思った。
「そうなのね、まあ時代もあるだろうけどね。それで、貴方は今後どうするの?体調が回復したら、そのまま会社に復帰する予定なのかしら?」
 母に聞かれて、私はすぐに答えられなかった。
 徐々に体調は改善している。
 休んでいる間、自分の体、仕事のこと、社会のこと、様々なことを考えた。
 今までは、日々の業務を過ごすことに忙殺されていて、考えるべきことを考えてこなかった。
 私の働き方はこれでよかったのだろうか?
 私のやりたかったことは、今の仕事だったのだろうか?
 休んで初めて、自分を振り返ることができた。
 私は昔から、やってみたかった仕事があった。
 でも、それは同級生に自慢できる会社ではなく、派手な仕事でもない。
だから、本音ではやりたい職業ではなかったが、会社の知名度と収入と待遇で、今の会社に決めた。その判断がそれほど間違っていたとも思わない。収入は大切だし、待遇も重要だ。でも、その結果体を壊してしまった。
人生、なにが起きるかわからない。
なら、一度くらいやってみたかったことに挑戦してもいいかもしれない。
そう思うようになった。
「ううん、会社は辞めようと思ってる」
母の表情は変わらない。
視線で、続きを待っているのがわかった。
「私、お花の仕事をしてみたいと思ってて、お花に関わる会社に転職しようかなと考えてるの」
「そうなのね。うん、春子がそう決めたのなら、それでいいんじゃないかしら」
 母は驚きもせず、微笑みながらそう言った。
母のいいところは、昔から子供がやりたいと決めたことは反対しないことだった。子供がやりたいと言えばやらせてくれて、応援してくれる。
「そういえば、子供の頃からお花が好きだったもんね。人生は一度きり、やりたいことをやりなさいな」
「ありがとう。うん、やりたいことをやってみる」
 私も笑顔で、母の応援に感謝した。
 その後は、親子水入らず、夕飯を楽しんだ。

 三回目の来院の日がやってきた。
「こんにちは」
 笑顔で先生が迎えてくれる。
 施術室に案内されて、先生が調子を尋ねる。
「今日で三回目の治療ですが、調子はいかがですか?」
「なんだか調子が良くなってきたのか、不安感や苦しいと感じるのがなくなってきました。しかも、この間電車に乗ることもできました」
一度電車に乗っても大丈夫だと思うと、安心して電車を使うことができるようになってきた。
自分の体に対しての自信も戻ってきた。
私がそう言うと、先生はニッコリと笑う。
「そうですか。それはいい傾向ですね。よかったです」
「先生のおかげです」
 私もつられて笑顔になる。
「いえいえ、鈴谷さん自身の治癒力のおかげですよ。私は鈴谷さんの回復のお手伝いをさせてもらっているだけですから」
「先生は治してくれてるんじゃなくて、お手伝いなんですか?」
 これだけ体調を良くしてくれる技術を持っているのに、あくまでもお手伝いだという。
「そうですよ。だって、その人の治癒力があって医療というのは成立してますから。極端な話ですが、亡くなってしまった人に、どんな最高の技術、医療を行っても治すことができないのと一緒です。あくまでも、生命の持っている生命力が土台となっているのですから」
そう言われてみれば当たり前のことだけど、そんなふうに言葉にしてくれる医療者はいなかった。
「そんな発想はなかったです。治してくれるのは、治療してくれる先生のおかげだと思ってましたから」
「もちろん、私が体を刺激して、治癒力を引き出しているというのはあるでしょうけどね。でも、肝心なのはその人の治癒力がなければ、体は治っていかないものですから」
確かにそうかもしれない。極端な話、もう命の寿命が終わってしまった死体に、どんな高度な医療を施しても生き返らないように、あくまでもその人の生命力がなければ、病気は治らない。
「では、今日のお体を拝見させてもらいますね」
 そう言って、いつものように先生の丁寧な触診から、治療が始まった。
三回目の治療が終わり、今回も体がポカポカして気持ちよくなった。血流がよくなったのがわかる。
 待合室に戻り、治療後のサービスのお茶を頂く。
「ご気分はいかがですか?」
 先生がいつもの可愛らしい笑顔で尋ねる。
「とてもいいです。気持ちも前向きになれて、いい感じです」
「それはよかったです。前よりも表情が明るくなりましたね」
「はい、ここに来る前は、なんでこんな目に合わないといけないのだろうという気持ちになっていましたけど、今回の事で色々と考えさせられました。やっぱり、人間無理はいけないものですね」
「そうですね。今の社会は、抑圧されていることも多く、無理を強いられていることも多いですからね。少し羽を休める機会、場所が必要だと思います」
 そう言いながら、先生が机の上に置いてある木製のオブジェに触れる。
 それは木の枝に止まっている小鳥のオブジェだった。
「それ、可愛いですね」
「ええ、これは患者さんでオブジェを作る仕事をしている方がいて、ご好意で作って頂いたんですよ。まさにこの鍼灸院のモチーフですね」
「とまり木ですか」
「そうです。飛び続けているときは、前に進んでいる。けれど、その地上には大切なものや、自分自身の疲労すら、忘れてしまうことが多いんです。だから、たまには休息して、進んできた道を振り返ることも大切なんですよね。そういったことは、羽を止めないとわからないですから」
「素敵な作品ですね」
 心からそう思った。
「誰にとっても、それぞれのとまり木があると思います。その一つの候補として、この鍼灸院があれば嬉しいですけどね。そういえば、鈴谷さんはお気に入りの場所は見つかりましたか?」
「はい、見つかりました」
 私にとってお気に入りの場所、安心できるとまり木は、ここだ。
 この鳥岡鍼灸院と出会ってから、私は自分の来た道を振り返ることができた。
いつもなにかに追われるように仕事をして、周囲を見ればみんなゼイゼイと息を切らしながら飛び続けている。
私はその競争に耐え切れず、脱落しそうになった。そして、たまたま見かけた木の枝に緊急避難した。幸運なことに、そこがとても居心地のいい場所だった。
困難の後に幸運があったわけだけれど、人生はなにが起きるかわからないものだと思う。
「それはよかったです。差支えなければ、どんな場所か教えてもらってもいいですか?」
私は笑顔で、人差し指を口元に当てながら言う。
「それは……秘密です」
「あら、秘密にされちゃいましたね。残念です」
 まったく残念そうに見えず、先生も楽しそうな笑顔で言った。
 さすがに面と向かって言うのは気恥ずかしい。
 それに先生が言うように、とまり木はそれぞれ違う。
 自分にあった場所をそれぞれが見つけるのが大切だ。
 しっかりと羽を休めて、また飛び立つ。
 疲れたら、いつでも戻ればいい。
 さあ、また私は新たな場所へと飛び立とう。
 大丈夫。
 疲れたら、また羽休めに戻ればいい。
 この可愛い笑顔が主人の鍼灸院に。

「了」

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