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止まり木①

「とまり木」

 

 息苦しい。

 それは突然の出来事だった。

 朝の満員電車に乗っていると、急に呼吸が苦しくなってきた。

 ハァ、ハァと息が切れる。

 心臓もバクバクと高鳴り、明らかに普通ではない。

 満員電車の中、マスクをしているからか?

 世界で感染症が流行り、この日本では国民のほとんどの人が外出時はマスクをしなくてはいけない社会的圧力を受け、義務でもないマスクを律儀にしている。なのに、感染者はどんどん増えているという不思議さはあるが。

 このマスクのせいで、苦しいのか?

 最初はそう思ったが、今までもマスクをしていたし、マスクの苦しさという感じでもない。

 息ができないという恐怖感、恐ろしいぐらいの心臓の動悸。

 しかし、満員電車でどこか落ち着いたところに移動もできない。

 その時、電車が停車駅に止まった。

 降りる予定の駅ではなかったが、たまらず人を押しのけて降りることに成功する。

 駅のホームで、ベンチに腰を下ろす。

 ベンチに座って、マスクを外す。

 ゆっくりと呼吸をする。

 少しづつ、呼吸が落ち着いてくる。

 もう出勤どころではない。

 会社に電話して、体調不良で休むことにした。

 とりあえず、病院に行こう。

私の体は、いったいどうなってしまったのだろう。

「鈴谷(すずたに)春子(はるこ)さん、どうぞ」

 名前を呼ばれ、病院の診察室に案内される。

 医師の診断は「パニック障害」とのことだった。

 原因は不明とのことだが、強いストレスなどで引き起こされる病気のようだ。自律神経の不調が関係しているようだ。

 病名だけは、聞いたことがあった。

 内臓などの器質的な疾患ではないのに、そんな苦しいことなんてあるのだろうか?

 自分が当事者になってみると、大げさではなく死ぬのではないかと思った。

 医者からは、しばらく静養したほうがいいと言われたが、仕事を休むわけにはいかない。

 今日は一日休んだのだから、ゆっくり自宅で過ごして明日には行かないといけない。

 

 翌日、また昨日と同じように電車に乗ろうとする。

 「っ……!」

 昨日の苦しみがフラッシュバックした。

 恐怖で足がすくみ、電車内に入ることができない。

 心臓もバクバクして、苦しい。

 ああ、だめだ。

 自分の体は、いったいどうなってしまったのだ。

 会社に電話して、今日も休むことにした。

 

 もう普通の社会生活は送れないのだろうか?

 自宅への帰路、絶望感と共に歩いていると、ふと看板が目についた。

 それは木の上に止まっている鳥の絵が描かれた看板だった。

 その絵の上に「鳥岡鍼灸院」と書かれている。

 鍼灸院?

 看板が置いてある建物を見ると、三階建ての建物の一階が鍼灸院のテナントとなっているようだ。

 鍼灸って、芸能人やスポーツ選手が受けているのを、雑誌やテレビで紹介されていたのを思い出す。

 看板の上に、鍼灸院のチラシが置かれている。

 そこには、WHO(世界保健機関)が効果を認めている疾患が列挙されている。

 たくさんの病名が書かれていて、その中で神経疾患もあった。

 自律神経失調症とあり、もしかしたら自分の症状を改善する手助けになるのだろうか?

 藁にも縋る気持ちで、この「鳥岡鍼灸院」に入ってみることにした。

 店内に入って、すみませんと声をかける。

 お店の奥から、細身の男性がやってくる。

 「はい、どなたでしょうか?」

 男性は薄紫色のウェアを着ている。仕事着のようだ。

 「あの……表の看板を見て入ったのですが、診てもらえますか?」

 「そうなんですか。ここは本来予約制なのですが、今日はこの時間に予約は入っていないのでいいですよ。どんなことでお悩みですか?」

 一瞬考える素振りを見せたが、優しい声色で聞いてくれる。

 「昨日から電車内で胸や呼吸が苦しくなってしまって、病院に受診したらパニック症候群だろうって言われてしまって」

 「なるほど、それは大変ですね」

 そう共感するように頷きながら聞いてくれる。

 「こういった症状でも、鍼灸というのは効くのでしょうか?」

 「必ず効果があると断言はできないですが、そういった症状で来られる方は多いですよ。受けられた方々は、楽になったと言ってくださることは多いです。もちろん、貴方の症状も良くなると断言はできませんが」

 なんとなく頼りない言い方だ。

 力強く治りますって断言してくれたほうが、こっちとしては助かる。

 この時の私は、なんでもいいから効果のある可能性に賭けたかった。

 それに人体のことだから、やってみないとわからないというのが、正直なところなんだろう。

 薬だって、飲んでみないとわからないのと一緒だ。

 人によっては、必ず治りますよとか、私に任せてくださいとか、威勢のいい言葉を使う人がいいと思う人もいるだろう。

 でも、私はこの人のように、断言した言い方をしない人は誠実だなと思った。

 どんなことだって、絶対の保証なんてない。

 そんなことは生きていれば、誰もが実感することだろう。

 なにより、社会に出て感じたことがある。

 威勢がよく断言するタイプは、うまく行っているときはいいが、うまくいかないときは逃げることが多い。

 自信満々だったのに、都合が悪くなると、そんなこと言ったか?と逃げたり、他人に責任転嫁する人ばかりだった。

 そのあたりは、政治家を見てもよくわかる。

 だから、言葉よりもこの優しそうな雰囲気の人なら、私の大事な体を任せてもいいのかなと思った。

 「試してみたいので、お願いできますか?」

 「わかりました」


 さて、結論から言う。

 受けてみた結果、お任せして正解だった。

 鍼を体に刺されると思うと不安で仕方なかったが、治療前に使う鍼を見せてくれて、その鍼の細さに驚いた。もっと太い鍼かと思ったからだ。

 トントンとリズミカルに鍼が体に刺さっていき、お灸もしてくれた。お灸も熱くなく、気持ちいいものだった。

 なんというか、強張っていた体がほぐれていくような感じだった。

 終わった後は体が温かく感じて、驚いた。

 治療が終わり、受付に戻る。

 受付では、温かいお茶も出してくれた。

「初めての鍼灸はどうでしたか?」

 先生が優しい声色で聞いてくれる。

「なんだか体の血流がよくなったように体が温かくて、気持ちよかったです」

「それはよかったです」

 先生が優しく微笑んでくれる。男の先生に向かってこんなことを思うのは失礼かもしれないが。可愛い笑顔だ。

「どのくらい通えばいいんですか?」

なんだかこのまま通えば、よくなっていくような気持ちになれた。

「そうですね、最初は症状が落ち着くまでは、週1~2ぐらいがいいかとは思います。症状が安定してきたら、間隔を延ばしていけばいいと思います」

なるほど。

なら、症状が落ち着くまでは、この穏やかな先生に頼るのもいいかもしれない。

そう考えて、今度は三日後に予約をお願いした。

料金を払い、帰りの際に先生はこう言った。

「鈴谷さんは、少し頑張りすぎたのかもしれませんね。ゆったりとした時間も取って、今回のことは休養する時間に当てるといいと思いますよ。では、またお待ちしています」

帰るとき、診察券を作ってくれていて、裏面には次回の予約日と時間が記入されていた。診察券には、院長の鳥岡(とりおか)一郎(いちろう)と名前が書かれていた。


鍼灸院を出て、さっき鳥岡先生が言った言葉を頭の中で反芻する。

頑張りすぎたのかもしれません。

そんな言葉、ここ最近誰にもかけてもらえなかったなと思う。

誰にもというのは、私が私自身にもということだ。

歯を食いしばって、頑張るのは当たり前のことだった。

頑張れば動けるのだから、頑張ればいいだけだ。

でも、まてよ。

頑張ると動けるということは、頑張らなければ動けない構造だということだ。

私はロボットではない。

機械は電気やガソリンを補給すれば稼働する。機械自体が壊れれば、また新しい機械を作ればいいだけだ。

だが、私は機械ではなくて、他に代替がない人間だ。

なのに、なぜこんなに頑張らなければならないのだろう。

頑張っても、頑張っても報われない。

むしろ、頑張れば頑張るほど損をしている。

そう考えた時、ふと全身の強張っていた体から、力が抜けていくようだ。

携帯を見ると、仲のいい同僚の遠藤(えんどう)朋(とも)美(み)からメールがきていた。

「お疲れ様です。部長から、事情は聞きました。誰だって、疲れちゃう時期はありますよね。今回のことは、神様が与えてくれた貴重な休息の時間だと思って、ゆっくり休んでください!仕事のことは、気にしないでくださいね」

文末に可愛い絵文字が添えられてあった。

思い返してみれば、ここ最近有給も取っていなかった。

いや、取りづらい空気があるのだ。

それは日本社会に空気として存在しているし、個人の中にも存在しているような気がする。

頑張って働いて、疲れても休まず働いて、そしてさらに疲れる。

でも、鳥もずっと飛び続けてはいられない。

羽を休める時間がなければ、長くは飛んでいられない。

私も羽を休める時期が来たのかもしれない。

会社の人事と話をして、一ヶ月休職させてもらうことにした。

 


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