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止まり木②

休みが取れてから、なんだか張りつめていた体の緊張が取れて、なにもやる気力が出なくなってしまった。
自宅で撮りためていたドラマを見たり、好きなYoutubeを見たりした。でも、平日にこうして休んでいると、どこかまだ落ち着かない。
まだ心が戦闘態勢を解いていない証拠なのかもしれない。
あっという間に三日が経ち、また鳥岡鍼灸院に行く。
「こんにちは」
鍼灸院に入るとまだ少し緊張するが、二回目なので前回よりは落ち着いていられる。
「鈴谷さん、こんにちは。体調はいかがですか?」
「まだよくわからないですが、発作のようなものは出てはいないです。電車に乗っていないのもありますが」
やはりまだ電車に乗るのは怖い。
またあんな恐ろしい目に合うかと考えると、躊躇してしまう。
「そうですか。日常はゆっくりできていますか?」
「いえ、なんだか急に休みがあると落ち着かなくて。でも、ゆっくりできるように頑張ってます」
ゆっくりするのに頑張るという言葉も変だなとは思ったが、ついそう出てしまった。
先生もそう思ったのか、笑って言う。
「あはは、それじゃあ疲れちゃいますよ。なにも考えず、ボーッとしていいんですよ」
前回と同じく、屈託のない笑顔で言う。
なんだかここに来ると、ホッとする。
二回目の治療を終え、また受付でお茶を頂く。
前回と同じく、体の疲れが取れていくような感覚になる。
「ご気分はどうですか?」
先生が優しく聞いてくれる。
「なんだか気分がいいです」
そう正直に言ったら、先生が穏やかな笑顔で言う。
「少しずつ体調が戻ってきたら、なにかお気に入りのスポットを見つけるのもいいかもしれませんね」
「お気に入りのスポット?」
「はい、もうすでにあるかもしれませんが、ここにいたらホッとする、落ち着く場所ですね。今の社会は、そういう場所がなかなかないですから」
確かにお気に入りの喫茶店や場所はある。
あるけど、たぶん先生の言っているスポットは、それとはまた別なような気がする。
「そういう場所はいいですね。探してみようと思います」
そう言って、次回はまた三日後に予約をして、鍼灸院を出る。

鍼灸院を出た後、私は待ち合わせしている喫茶店に入る。
「春子、久しぶり!今回は大変だったね」
お店に入ると、友人の篠原(しのはら)加奈子(かなこ)が待っていた。
彼女は高校時代の同級生で、現在は都内の病院で看護師をしている。
「本当に大変だったよ。私も突然のことで、ビックリしちゃった」
彼女に現在の状況を伝えたところ、気分転換にお茶でもしようということになった。
こういう時は、看護師はシフト制だから平日でも会えるのは助かる。
席に着いて、コーヒーを注文する。
「でも、意外に元気そうだね。顔色も悪くないし」
加奈子が気遣いながら、明るく言う。
「そう?自分だと、わからないけど。でも、確かに体調は悪くないよ。さっき鍼灸院に行ってきたおかげかな」
「え、春子、鍼灸院通ってるんだ。いいね」
「加奈子、鍼灸受けたことあるの?」
「私はないけど、私の病院で鍼灸を受ける科もあるから。慢性痛や、西洋の薬で効果が出ない人とか受けてるよ。後は、よく雑誌で美容鍼灸とかあるからね。むしろ、そっちで受けたいなぁ」
そういえば、よく芸能人がテレビや雑誌で美容にも効くと宣伝している。
「でも、体調も良くなってるみたいで、いい先生に当たってよかったじゃん」
「うん、よくなるまで通ってみようかなと思ってるよ。その先生に言われたんだけど、加奈子はお気に入りの場所って持ってる?それか、ホッとできる場所とか。そういう場所を見つけておくといいですよって言われたんだよね」
「お気に入りの場所?なるほどね、それはいい考えね。うーん、私はなんだろうなぁ。行きつけのbarとか行くと落ち着くし、他にも色々あるから、その時々で使い分けてる感じかな。その場所にあった気分とかあるだろうから」
「そっか、確かにそれぞれの気持ちにあった場所ってあるもんね」
「そうそう、今の春子に合うのは、きっと疲れた心身を癒す場所なんだと思う。ここに来れば、大丈夫!って思える場所ね」
さすが看護師だけあって、加奈子の言葉には説得力があった。
「そうね、そういった場所見つけたいなぁ。私、なんか色々疲れちゃったみたい。加奈子は、大丈夫?看護師の仕事、大変じゃないの?」
加奈子はいつも明るいから、前向きに乗り切っているんだろうなと思いながら、笑顔で聞く。
「私?私もダメ。春子には、まだ言ってなかったけど、今月一杯で今の病院辞めるんだ」
「え!本当?突然、どうして?」
まさに寝耳に水だった。
「突然でもないよ。もう去年から考えていたし。色々理由はあるんだけどね。一番は私も春子と同じで、体がもたないかなって思って」
加奈子は明るいトーンで、続ける。
「病院勤務ってきついんだよね。医師とのコミュニケーション、看護師同士の人間関係、そして夜勤もあるし。休日もシフト制で、予定立てにくいし。平日休みなのは、こうやって一緒にお茶ができるからいいときもあるけど、友達と遊ぶ約束もしづらいしね。まあ、小さいことの積み重ねで疲れちゃったんだよね。私の人生、これでいいのかなって」
いつも明るくタフな加奈子がそんなふうに思っていたなんて、思わなかった。
「そう考えちゃうと、仕事にも身が入らなくなってきちゃうんだよね。やっぱり、人間自分が辛いときには、病気の人を看護したり診たりするのはきついよ。こんな気持ちで働いていたら、患者さんにも申し訳ないなと思って、辞めることにしたんだ」
「そうだったんだ……」
どんな仕事も楽な仕事はないけど、医療の仕事って人の健康を預かる仕事だ。その責任感、人命がかかっているプレッシャーは、真剣に医療の仕事をしている人からしたら、異業種の私には想像できないものがあるのだろう。
「でも、看護師の仕事は嫌いじゃなかったんだ。だから、またいつか結婚でもしたら病院勤務じゃなくて、訪問看護や、パートとかで戻れたらいいなと思ってるんだよね。だから、次は医療と関係ない一般企業に勤める予定。知り合いの人が、新しく会社を立ち上げるから、事務として誘ってもらったんだ。とりあえずそこで働くつもり」
加奈子は晴々とした表情で言った。
「加奈子はすごいね。すぐに切り替えられて。私は結局ちゃんと休んだり、職場を去る度胸もなくて倒れちゃったからさ」
私も彼女のように、自分の人生を大事にするべきだったんだろう。
限界まで我慢なんて、する必要がなかったのかもしれない。
「人間だもん、限界はあるよ。だから、ちゃんと休むときは休む。それにどんなに忙しくして人でも、うまく休んでるものよ。よく言うじゃない?仕事ができる人ほど、サボるのも上手いって。つまり、息抜きをしてる人のほうが、仕事も捗るってことよ」
そう言いながら楽しそうに笑う。
「だから、その鍼灸の先生が言うように、息抜きの場所はあったほうがいいかもね。ほら、鳥が羽を休めるときのとまり木のようにさ」
とまり木と言われて、鍼灸院を思い出す。
鳥岡鍼灸院。
もし、あの時たまたま看板を見て、鳥岡鍼灸院と出会っていなかったら、どうしていただろう。今の私のように、安心して休んでいられただろうか?
きっと、いつ治るのだろうかと、不安に思いながら日常を過ごしていたような気がする。
今の私は、まるで鳥岡鍼灸院という枝に止まっている鳥のようだ。
そして、今回体調を崩したことは、きっと羽根を休めなさいという心身のメッセージなのかもしれない。
飛べなくなった緊急の時に、側にあったとまり木が島岡鍼灸院だったのだろう。
そう思うと、ふと肩の力が抜けてきた。
私は、飛びつかれた鳥なんだな。
「そうね、私もしばらく休んでゆっくりすることにする」
「そうそう、休んでからこれからどう頑張っていくか決めればいいのよ」
そう言って、お互い笑いあう。
この後は、他愛のないテレビや雑誌の話をして、楽しく友人との時間を過ごした。
喫茶店を出て加奈子と別れてから、ぶらぶらと近所を散歩する。
ここ最近は不安感も出なくなってきた。
なんだか体が軽いのだ。
体も軽いし、心も軽くなってきた。
今までは、社会の歯車だった私が、『鈴谷春子』という私に戻ってきたという感じだ。
私は私だったのだけど、なんというか見失っていたことが多かったと思う。
どうして見失っていたのかを考える。おそらく止まってしまったら、もう進めなくなってしまうのではないかという目に見えない恐怖心と、休むことが許されない社会からの無言の圧力だったのではないだろうか。
でも、私は無理をすれば壊れるし、無理なものは無理なんだと。
私には休息の時間、空間が必要だったのだ。
そう自覚できたから、心身が軽くなったのだろう。
そして、先ほどの加奈子とのやり取りを振り返る。
加奈子は、休んでこれからどう頑張っていけばいいか考えればいい、と言っていた。

ふと思いついたのは、今なら電車に乗れるかもしれないと思った。
最寄り駅に向かい、隣駅まで行ってみよう。
改札を通り、ホームに来た。
特に問題はない。
電車が来る。
前の発作時の記憶が浮かんでくる。
ドクッ、ドクッ!
やや自身の心臓の鼓動が早くなるのが聞こえてくる。
大丈夫。
根拠はないけど、大丈夫な感覚がある。
電車が止まり、目の前で扉が開く。
足を電車内に踏み入れる。
そのまま車内の隅に進む。
電車が動き出す。
隣駅まで3分。
大丈夫、なにも苦しくない。
そして、隣駅で止まる。
電車を降りて、改札口も出る。
結論、問題なしだった。
もちろん、最初の時と条件は違う。
満員電車ではないし、休養を取っているからなのもあるだろうけど、発作が起きないという経験が大事だ。普通の状態なら、以前のように出かけられるのがわかった。
気分がいいので、運動も兼ねて徒歩で自宅に帰ることにした。


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