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孫策の江東戦線⑤袁術からの離反

後漢末期、孫策が江東地域で勢力を拡大していた際、彼は最初袁術と協力関係にありました。この関係は、孫策にとって資金や兵力の支援を受ける上で重要でした。しかし、袁術が皇帝を僭称するという野心的な行動を取ったことが、両者の関係に亀裂を生じさせることになります。この経緯については、『三国志』「呉書」孫策伝などに記録されています。

袁術の皇帝僭称

袁術は自らの野心を背景に、197年頃に自らを皇帝と宣言しました。この行動は、当時の政治的な正統性を主張する他の勢力、特に曹操や劉備などと敵対することを意味し、彼を支持する者たちにとっても大きな賭けとなりました。袁術のこの決断は、彼の支配地域である淮南で宣言され、彼は新たな皇朝を樹立しようとしました。

孫策の離反

孫策は袁術からの支援を受けて江東地域を平定していましたが、袁術の皇帝僭称によって、その関係は変化しました。孫策は袁術のこの行動を、自らの政治的立場や将来にとって不利益であると判断しました。特に、袁術の僭称は他の勢力からの強い反発を招き、孫策にとっても袁術との関係を維持することが政治的リスクとなりました。

孫策は袁術との関係を再評価し、最終的に袁術から距離を置くことを選択します。これにより、孫策は江東地域での自立を図り、自らの勢力基盤を確固たるものにすることに専念しました。孫策のこの決断は、後に呉国の基礎を固める上で重要な役割を果たします。

結果と影響

孫策の袁術からの離反は、江東地域での彼の勢力をさらに拡大する機会となりました。孫策は袁術との関係を断ち切ることで、他の勢力との同盟や協力の道を開き、その結果、江東地域の統一を進めることができました。また、孫策のこの決断は、彼自身の政治的な独立性を高め、後に弟の孫権が呉国を建国するための基盤を作ることに繋がりました。

孫策と袁術の関係の変化は、後漢末期の複雑な政治状況と勢力間の駆け引きを示す事例の一つであり、三国時代の政治地図を形成する上で重要な要素となりました。

#三国志勉強ノート  No.110

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