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三国志の群雄⑩馬騰

後漢末期、馬騰は涼州(現在の甘粛省一帯)で活動しました。彼の生涯は、後漢末期の政治的混乱と地方勢力の抗争の中で展開しました。ここでは、馬騰のキャリアと群雄割拠時代の生き様について説明します。

  1. 出身と初期の経歴: 馬騰の正確な生年は不明ですが、彼は涼州の一部族の長の子として生まれました。若い頃から武勇に優れ、地元で名を馳せていました。

  2. 董卓勢力に恭順: 董卓が長安に遷都すると、政治はさらに混乱しましたが、馬騰は董卓や李傕、郭汜らに恭順の意を示しながらも、涼州地域に勢力を張っていました。

  3. 涼州の支配: 馬騰は涼州で自身の勢力を拡大し、実質的にこの地域の支配者となりました。彼は地元の部族や他の勢力との同盟を通じて、自らの地位を固めていきました。

  4. 曹操との関係: 曹操が全国の統一を進める中、馬騰も曹操との関係を模索しました。曹操は馬騰の勢力を警戒しつつも、一時は彼を中央政府に招き、馬騰は官職に就任しました。これにより、馬騰は一時的に曹操との和解を見ました。

  5. 子の馬超との関係: 馬騰の息子である馬超は、父親とは異なり、曹操に対して反抗的な姿勢を強めました。馬超は涼州で反乱を起こし、曹操に対抗しましたが、最終的には失敗に終わります。

  6. 212年、暗殺: 馬騰は212年に、曹操の命令で暗殺されました。これは馬超の反乱に対する報復の一環とされています。馬騰の死により、彼の勢力は大きく衰退し、曹操による中国中央部の統一がさらに進むことになりました。

馬騰の生涯は、後漢末期の混乱の中で地方勢力がいかに自立し、そして中央政府とどのように折り合いをつけようとしたかを示す事例の一つです。彼の死後、息子の馬超は一時期反曹操の象徴となりましたが、最終的には曹操によって抑え込まれることになります。馬騰とその一族の運命は、後漢末期から三国時代への移行期の動乱の一面を物語っています。

#三国志勉強ノート  No.53

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