「托卵」と「魂の殺人」の表現について
フジテレビの2024年10月期のドラマが中々にチャレンジングなテーマを選んでいる。そのテーマはなんと「托卵」である。以下にフジテレビの番組紹介の文章を引用しよう。
このドラマでは、夫が結婚生活のなかで精神的DVを行う形なので、妻による夫へのある意味での復讐として托卵が機能している。つまり、「托卵の邪悪さ」に見合う「夫のDVの邪悪さ」が描かれて、夫婦の邪悪さのバランスをとって視聴者が納得し得る形となるようにしている。
しかし、少し特殊な形の勧善懲悪ドラマになっているために、ドラマの構造上、悪玉側を担当する夫はともかくとして、善玉側を担当する妻は「邪悪な癖に邪悪でない印象」となるような演出となっている。
そのような演出が為されている背景として、托卵の邪悪さについて少なからぬ女性は理解していないことが挙げられるだろう。そのような女性は、どうも托卵を子連れ結婚と実質的に変わりないと解釈しているようなのだ。
これらの事から窺える、女性の托卵についての認識を巡る事情から「托卵は男性の人生や尊厳に大きな打撃を与えることなのだ」と訴える男性側の主張がSNSを中心に湧き上がる。その際に「托卵は"魂の殺人"である」との表現が用いられることが多くなった。
因みに、この表現はネットの片隅で呟かれるような匿名の人間の繰り言に登場する表現ではなく、市議会議員といった公人がSNS上で公言する言葉のなかにも登場している。その様子を実際に確認しよう。
ただ、この托卵に対する"魂の殺人"との表現についてだが、この表現はフェミニズム側に対する対抗言説の性質がある。つまり、ライトなものも含む女性への男性の性暴力に対して、フェミニズム的言説において用いられていた大仰な表現を踏襲したのである。その様子を同様に確認しよう。
しかし、このフェミニズム的言説に登場する"魂の殺人"という表現なのだが、元々はフェミニズム思想の言葉ではない。家庭教育における子供への虐待問題および児童虐待を受けた子供への対処をしない場合の社会への悪影響の問題を研究する心理学者のアリス・ミラーが1980年代に提唱した概念である。つまり、児童虐待という文脈での教育の暴力性・非人間性を非難するにあたって用いられた概念なのだ。すなわち、"魂の殺人"という強い表現は、幼少期に教育虐待を受けることで精神に不可逆的な損傷が生じる現象の重大さを知らしめるためのものである。
それが暴力的な躾といった教育虐待という文脈を離れて、児童虐待全般、とりわけ児童への性的虐待という文脈で"魂の殺人"という表現が使用されるようになった。そこから更にフェミニストが「児童虐待」という文脈を抜き去り、女性に対する暴力という文脈に書き換えたのである。
以上のような"魂の殺人"の表現を巡る歴史を踏まえて、男性が托卵に対して"魂の殺人"と糾弾するまでの流れを、簡単にまとめ直してみよう。
【"魂の殺人"という表現の変遷】
教育虐待となる暴力的な躾は児童の精神に取り返しのつかない損傷を与える。それゆえ、児童に対する教育虐待を"魂の殺人"と呼ぼう。
教育虐待に限定せず、児童の精神に取り返しのつかない損傷を与える児童虐待全般を"魂の殺人"と呼ぼう。
児童虐待の中でとりわけセンセーショナルな児童への性的虐待を"魂の殺人"と呼ぼう。
児童に対するものに限らずレイプを"魂の殺人"と呼ぼう。
レイプに限らず女性に性的な不快感情を齎すもの全般を"魂の殺人"と呼ぼう。
それならば、男性の人生や尊厳を大きく傷つける女性の行為もまた"魂の殺人"と呼んでいいだろう。したがって、托卵は"魂の殺人"に当てはまる。
つまり、女性にとって他方の性別である男性の加害行為を、その加害行為の重大さを男性に知らしめてやろうという意図をもって、殺人というセンセーショナルな言葉を含む、本来は別の意味を持っていた"魂の殺人"との用語を、フェミニスト側がカジュアルに使用したのである。
その経緯を踏まえて、男性にとって他方の性別である女性の加害行為を、その加害行為の重大さを女性に知らしめてやろうという意図も併せて、"魂の殺人を行う男性という性別"という一方的な認識に対する対抗言説として、女性も男性に同程度の加害行為を行っていると、2024年時点の男性達は主張しているのである。
この"魂の殺人"の言葉を巡る問題圏は、以上の経緯を踏まえなければ正確に論じることはできない。フェミニストが別分野で用いられていた概念を盗み出したにもかかわらず、恰も自分達が勝手に用いた概念の使い方こそが正統であるのだと臆面もなく言い出すことが少なくない。この"魂の殺人"の言葉についても「男性は"魂の殺人"の言葉を間違って使う」などと文句を垂れている。実に、フェミニストの盗人猛々しい態度が表れている。
フェミニストが他分野の用語である"魂の殺人"に対して行った概念変容が許されるのであれば、なぜフェミニストの身勝手な「女性が被害者になる場合しか当てはまらないとする定義」から男性が更に"魂の殺人"の定義を「男性が被害者となる場合にも当てはまる定義」に変容することが許されないのか。
言語使用に対する女性特権をフェミニストは振りかざしておきながら、特権階級として振る舞っている自覚がない。ジェンダー問題が絡む言語使用に対して「三歩下がって影を踏まず」という態度を男性は女性に対して取るべきである、というセクシズム丸出しの考え方をしている。それにもかかわらず、「私たちはジェンダー平等を目指しているの!」とイノセントな存在であるかのような戯言を抜かしている。
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