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MBTI:SNTF機能と「感性・悟性・理性+感情」~「N:直観と悟性」編~

 MBTI理論の4つの心的機能(内向・外向の方向性を加えると8つ)について、それぞれが何を指しているのかについて考えてみたい。前回の記事でも問題にしたが「N:直観(あるいは直感)」というものが非常に分かり難い。とりわけ、「T:思考」とどのような関係にあるのかが判然としない。そこで今回はカント哲学に登場する「感性・悟性・理性」に加えて「感情」を、MBTI理論の各心的機能に対応させて考えてみようと思う。

 とはいえ、カント哲学も理解するのは簡単ではない。特に悟性については一般社会でまず耳にすることのない言葉だ。哲学と無縁であれば、MBTI理論のN機能に当てられている直観の語と大差ない。言ってみれば、訳の分からない言葉を別の訳の分からない言葉に言い換えただけのようにも思えるだろう。したがって、初めに悟性について出来るだけ簡単に、理性等の関係を含め説明しようと思う。


■悟性とは何だろうか

 悟性を一言で言い表すのは難しい。ざっくり言えば、哲学の専門用語の「範疇(カテゴリー)」でもって感性の受容した表象から対象を認識する働きと言える。しかし、そもそも「範疇(カテゴリー)」という単語は、哲学の専門用語としての意味と一般的に用いられる日常語としての意味が乖離しているために誤解が生じやすいのだ。アリストテレス以来の哲学用語としての範疇(カテゴリー)は、事物を分類したときにそれ以上分類不可能な「究極の類(量・質・関係・様相)」を指している。一方、日常語としての範疇あるいはカテゴリーは単に分類された範囲・分野などを指している。つまり、専門用語が持っている「究極の、根本の」といった性質が抜け落ちた類概念が、日常語の範疇あるいはカテゴリーの意味である。したがって、カント哲学の悟性概念を理解するには、哲学用語としての範疇(カテゴリー)の概念を用いて理解しなければならないのだが、これが日常語としての「範疇(カテゴリー)」の意味が邪魔してちょっと難しい。そこで、哲学用語としての範疇(カテゴリー)を包括的に用いるのではなく、範疇(カテゴリー)の具体例(=様相など)を用いて、説明することにしたい。

 悟性を具体的に説明するにあたって三段論法の説明において用いられている伝統的な例(人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。ゆえに、ソクラテスは死ぬ。という例)の顰に倣ってみよう。

 さて、私は「生きている」と感じている。現実に五感から様々な感覚が伝わってきて表象を形成している。

 この五感から様々な表象が伝わる機能が"感性"である。したがって、感性の特徴として"現在"という時間軸上の一点から離れて存在することはできない。つまり、未来の事柄については感性は働かない。このことは、現在から未来の事柄を対象に考察するとき、感性の働きを想定する必要が無い事を示している。言い換えると、その考察で働いているものは理性と悟性であると見做してよい。

 私がここで500年後の未来について想像したとしよう。このとき「500年先だと私は死んでいるな」と考える。

 その際の私の思考は「最高年齢のワールドレコードは122歳だ。ひょっとしたら生命科学の進歩によってこの記録に届くどころか超えることができるかもしれない。とはいえ、伸びてもせいぜいが百数十歳だろう。到底、500年先まで私が生きていることはない」といったものだろう。

 次に私は10年後の未来について想像したとする。このとき「10年先なら私はまだまだ元気に生きているな」と考える。

 その際の思考は「日本男性の平均寿命は81歳程度だ。平均余命から考えた私の寿命と平均寿命は異なるが、まだ私の年齢だとそこに大きな乖離はない。平均寿命や平均余命から考えれば10年先であれば私は生きているだろう。しかし考えたくない事ではあるが、交通事故にあって10年先どころか明日には私が死んでいる可能性も当然ながら無いではない。とはいえ、そんな心配は特には要らないだろう」といったものだろう。

 この500年先の自分の生死を考える私の思考も、10年先の自分の生死を考える私の思考も、共に理性の働きである。それぞれの思考の具体的な流れに着目してしまうと悟性が働いている様子は分からない。しかし、この思考の枠組みに注目したならば、そこに悟性が働いていることがハッキリとわかる。

 まず、500年先や10年先といった「時間経過」という実に基本的な枠組みは、悟性によって我々は認識しているのだ。また、500年先の私の死が必然という様相のもと捉えられているのに対して、10年先の私の死は偶然という様相のもと捉えられている。自分の死に関する二つの私の思考における枠組みの「必然-偶然」といった様相もまた悟性によって認識する。

 「悟性がなんであるか」を理解している人ならば上の説明で「悟性ってそういうものだよね」と分かるだろうが、「いったい悟性って何なの?」という人にとっては、上記の説明ではまだまだ不十分だろう。そこでもう少し悟性についての説明を試みよう。

 時間経過と因果関係に関する有名な思考実験に、バートランド・ラッセルによる「世界五分前仮説」というものがある。ラッセル自身の解説とWikipediaの世界五分前仮説の説明が"悟性"を理解するにあたって中々に良いので引用しよう。

 世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである

ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)

「この木は芽が出てから今年で12年になる、だから年輪が12本ある」

 このような言い方も日常でもよくするが、年輪が12本あるという事実を「結果」とみなせば、これに対応する「原因」が位置すべき過去が存在するはずだとは主張し得るものの、このような主張もまた完全に証明することはできない(もちろん反証することもできない)。これは世界5分前仮説の場合と同様の理由による。それは因果律である。因果律というのは論理的な必然性から導かれたものではなく、日頃の経験から無意識的にそれを前提として思考しているという類の仮定であり、因果律自体を論理的必然から導くことは出来ない。これはつまり「違う時刻に起きた二つの現象の間にはある種の関係がなければならない」ということを論理的な必然性だけからは導けないという事である。そのため、今起きている事やこれから起きることをどれだけ調べても、それによって過去の出来事を完全に証明または反証する、ということは(厳密に考えると)不可能である。

Wikipedia「世界五分前仮説」の説明

 ちなみに、因果関係は観察される事実ではなく「恒常的連接」によって生み出された、我々が無意識的に前提におく思考の仮定なのだといった議論は、ヒュームが提出してカントに衝撃を与えたエピソードで有名だ。つまり、ラッセルの世界五分前仮説はヒュームの懐疑論の焼き直しといってよい。まぁそれはともかく、時間経過と因果関係も共にある種の思考習慣から形成される思考枠組みであって"悟性"によって認識(あるいは設定と呼んだようが適切かもしれない)されるのだ。したがって、時間経過や因果関係といった思考枠組みは論理的必然性によって導き出されるもの、つまり"理性"によって認識するものではないのだ。

 また、様相に関しても同様の思考枠組みであって、感性から得られた表象から論理的に導き出せるものではない。例えば、(イカサマではなく普通に)コイントスをしてオモテが出たとき「いまコインはオモテ面が出たけれども、ウラ面が出ることも有り得た」というように我々は考える。しかし、このような捉え方はよくよく考えるとオカシイのだ。コインの初期位置、コインの質量、コインを弾いた指の動きと弾く強さ、コインが空中で受ける空気抵抗、地球の重力等々からコインの裏表は決まっている。これらの条件が同じであったときにコインの裏表が変化することはあり得ない。つまり、コインがオモテになったことはなるべくしてなったのだ。「ウラが出ることも有り得た」などという非決定論的世界の話ではない。

 しかし、我々はコイントスの結果やサイコロを振ったときの出目を考えるとき、決定論的な思考枠組みで物事を捉えない。「実現した事態とは異なる事態も有り得た」という形で現実を認識する。これは一体どういうことなのか。

 「偶然」という様相で事態を捉えるとき、我々は「現実とは何かが少しだけ違う世界」を想定している。そのような変化があったとしてもおかしくないような、現実世界においては生じなかった変化が生じたパラレルワールドを想定するのだ。そして、そのパラレルワールドにおいて生じた事態が現実世界と異なる事態になっているとき、我々は現実世界において生じた事態が偶然の事態であったと認識するのである。

 一方、「必然」という様相で事態を捉えるとき、我々が現実的に想像し得る、現実世界においては起こらなかった変化が起きた全パラレルワールドを見渡したとしても「その事態については変化しない」場合、その事態の様相は必然と考えるのである。

 様相に関する以上の理解を前提に、10年先の自分の死に関する考察と500年先の自分の死に関する考察を比較してみよう。

 「10年先の自分の死」を偶然的事態と思考するのは、現実的に想定する有り得る変化が発生したパラレルワールドを想像した際、「自分が死んでいる事態」と「自分がまだまだ元気に生きている事態」に関して、それらの事態が成立しているパラレルワールドを両方とも想像することができる為である。

 一方、「500年先の自分の死」は必然的事態と思考するのは、現実的に想定する有り得る変化が発生した全パラレルワールドを見渡してみても、500年先で自分が生きている事態が成立しているパラレルワールドは無いであろうと考えるために「500年先の自分の死」は必然的事態と私は考えるのだ。

 上のような様相についての考え方を可能世界論と呼ぶ。様相という「範疇(カテゴリー)=思考枠組み」については、可能世界論で考えるとスッキリ理解できる。

 また、このような可能世界を想像していく思考枠組みは、「10年先に自分が生きているかどうか」や「500年先に自分が生きているかどうか」といった、具体的な自分の生死に関する事態についての思考とは全くの別モノだ。感性が与える表象から論理的に可能世界というものを導き出すことはできない。したがって、「何かがほんの少しだけ違うパラレルワールドが有り得る」という思考枠組み自体は、感性でも理性でもない"悟性"の働きによって認識(というよりも設定)するものといえるのだ。

 以上、具体的な「悟性の認識」について見てきた。悟性一般の分かり易い解説は私の手に余るため、もっと総体的に詳しいことが知りたい人はカント哲学を解説した良書は数多くあるのでそちらをみて欲しい。


■MBTI理論の「N:直観」とカントの悟性

 MBTIの心的機能論における「N:直観」という機能についての定義は、そんなにハッキリとしている訳ではない。MBTI理論において「N機能とは、かくかくしかじかである」という定義が為されていない訳ではないのだが、それでもイマイチよく分からない。

 譬えで言うならば、MBTI理論のN機能の定義は、「高校生らしい節度ある髪型にすること」と定めている校則と同じような印象を受ける。

 この譬えにおける「高校生らしい節度ある髪型にすることという校則」が髪型についての規定であることは理解できるし、「何となく真面目な雰囲気があって清潔感のある若者らしさが感じられる髪型」を指しているんだろうなとは想像がつく。

 したがって、金髪モヒカンや(民族的背景の無い人間の)ドレッドヘア、あるいはパンチパーマはこの校則に適合しない。また、真面目な雰囲気があってもサラリーマンがするような(あるいはオードリーの春日のような)七三分けではないだろうし、清潔であってもスキンヘッドは論外だろう。氣志團のメンバーがやっているようなリーゼントは若者以外はほぼしないだろうといえるが、若者の髪型とはいえアレはダメだろうと分かる。

 そう、譬えに使った校則が定義する髪型が何となくは分かるように、MBTI理論のN機能の定義が指し示す心的機能も何となくは分かるのだ。だが、その正体はハッキリしない。

 したがって、比較的ハッキリしている「S:感覚」と「T:思考」を手掛かりに、3つの認識機能があるモデルで厳密なモデルを探すと、カント哲学が提示しているモデルが類似しているように思われる。そして、「S:感覚」がカント・モデルの感性に、「T:思考」はカント・モデルの理性に当てはめると、それなりに適合しているような印象がある。

 そうすると、カント・モデルの残りの認識機能となると悟性になるわけだが、悟性の働きと「MBTIのNの心的機能の働き」とされるものを比べるとかなりの類似が見られる。

 正直な所、私はMBTI理論が語る人間の認識モデルよりも、カントが語る認識モデルの方に信用を置いている。概念の厳密さで比較すれば雲泥の差がある。とはいえ、カントは別に彼の認識モデルに関して、MBTI理論のような形で捉え直すことは特にしていないので、MBTI理論はそれはそれで価値がある印象を持っている。

 まぁ、何となくは分かるけれどもその実よく分からないMBTI理論の「N:直観」という心的機能が、気になって仕方がないだけなのだが。




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