見出し画像

MBTI:T型とF型と幸福の関係

 我々の活動や行為は「手段と目的」の連鎖で構成されている。この構造に関して、以下のような遣り取りを想像すればよく分かる。

Q1「なぜ、勉強しなきゃいけないの?」(手段)
A1「いい大学に行くためだよ」(目的)
Q2「なぜ、いい大学に行くの?」(手段)
A2「いい会社に入るために入るためだよ」(目的)
Q3「なぜ、いい会社に入るの?」(手段)
A3「お金をたくさん稼げるからだよ」(目的)
Q4「なぜ、お金を沢山稼ぐの?」(手段)
A4「大きな家や車が買えるようになるからだよ」(目的)
        ・
        ・
        ・
Qn「なぜ○○するの?」(手段)
An「それは幸福になるためだよ」(目的)
Qn+1「なぜ、幸福なるの?」(手段)
An+1「幸福になるのは何かの手段じゃなくて究極的な目的なんだよ」(目的)

 上の遣り取りにおいて、「いやいや、勉強するのはいい大学に入るためだけじゃないぞ」や「大学に行くのはいい会社に入るためじゃないぞ」等のツッコミはあるだろうし、「なんなの、このスノビズムに溢れる問答は?」と拒否感を持つ人もいるかもしれない。だが、前半部分はよくネタにされる遣り取りとして軽く流してほしい。それより注目して欲しいことは後半の部分である。この「なぜなぜ問答」の最後の段の問答から究極的な目的が幸福にあることが分かる。もちろん、例示したような経路だけからしか幸福に至ることが出来ないわけではない。例えば最初のステップの勉強の目的を「知識を得る事」に変えたとしても、その経路の究極的な目的もまた「幸福」になるはずだ。

 この幸福が究極的な目的になる性質については、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』において、諸々の活動・希求・目的の連鎖・包含関係の最上位に来る、自足的・充足的な最高善として、それは幸福であると論じている。

 このような我々の活動・行為の構造は16パターン性格診断のT型とF型の差異を考察するにあたって非常に重要だ(註)。そのことについて、これから論じていこう。


■幸福という究極目的を忘れないF型と忘れるT型

 幸福に関してT型とF型とが大きく違う点は、実際に活動している際に幸福が究極目的であることを覚えているかどうかである。F型が究極目的である幸福を見据えて忘れないのに対して、T型は「幸福が究極目的であること」が頭の中からどこかに行ってしまう。このことは別にT型が幸福を感じないとかいった話ではなく、活動中に幸福が視界から外れるという話なのだ。

 先の問答の例で示せば、F型は勉強中も究極目的のAn+1を忘れない。しかし、T型は勉強中はAn+1など視界にない。ST型の視界にあるものは最初の目的のA1のみ(あってもせいぜいA2程度)であるし、NT型であっても究極目的よりも手前にある目的のAi(1<i<n)までである。このことはT型とF型の知的能力の問題ではない。知的能力は「手段と目的」の設定の妥当性に関わる要素であって、手段と目的の連鎖に関する視界の範囲に関わる要素ではないのだ。

 そして、おそらくF型がT型に対して「なんだ、こいつ等?」と感じるものが、このT型の視界の範囲である。T型は自分の視界において最遠の所にある目的を見据えて、活動の妥当性を判断する。しかし、そのときの目的は決して究極目的であるAn+1ではないのだ。T型にとってみれば、自分の視界において最遠のところにある目的が最終目的である。それへの最適解を当人の知的能力が及ぶ範囲で検討する。しかし、そのT型人間が選択した解は究極目的である幸福にとって適切ではない解であることがあるのだ。

 このことはT型にとって強みでもあり、弱みでもある。この強みになることと弱みになることに関して順にみていこう。

 このT型の手段-目的連鎖に関する近視眼性の強みが最大限に発揮されるのがST型の活動である。典型的には運動部を3年で引退した受験生が文化部の連中を後目に急に成績を向上させる例がST型の近視眼性の強みの例として挙げることができるだろう。彼らは目の前の受験突破以外を視界に入れず、受験突破という目的に向かって当人の知的能力で判断するかぎりの最適解の行動をとる。あるいは、別の典型例でいえば、ブラック労働も厭わず営業成績を上げる企業戦士もそうだろう。ST型にとってみれば目の前の営業成績を上げるという目的に向かって全力投入することこそが最適解だ。ST型は幸福状態であればもちろん嬉しくは感じるだろうが、活動中の彼の頭の中において「幸福であるかどうか」は基本的にどうでもいいことなのだ。だから、幸福な生活を犠牲にしても営業成績を上げることができる。そして、結果論として言えることになるが、それによって長期的で大きな幸福を彼らはしばしば獲得する。

 NT型の強みとしては、その時々の幸福感に流されず長期の目的に向かって努力することが出来る。例えば、小学校の高学年において大学受験を見据えて勉強に精を出せるのは、ST型ほど近視眼的でない長期的視野をもつNT型の強みだ。同じT型であるST型が現在という現実世界を離れられないのを後目に、未来の世界に存在する目的に向けて努力することを苦にしない。また、F型がその時々での幸福を無視できない一方で、NT型は長期目的達成に向けて、その時々の幸福を無視して努力できる。こういったものがNT型の強みだ。

 ただし、ST型にしてもNT型にしても、その努力によって幸福が獲得できたとしてもそれは結果論に過ぎない。彼らが犠牲にした時々の幸福に報いる構造をもった立場に彼らが立つことができるとは限らない。そのような社会的立場、あるいはプライベートの立場が得られないとき、ST型もNT型も犠牲にした幸福の分だけ不幸になる。

 また、NT型に関してみると、学生という立場から社会人の立場になった途端、NT型の視界に入る最遠の目的に対する最適解となる活動を許容するような裁量権をもった立場に立つことは、大組織に所属すると難しくなる。5年先や10年先の目的といった学生時代であれば当たり前に設定できた長期目的は、大組織の末端の人間には設定することを許されていない。更に言えば、秩序よりも自由を好むNTP型にとっては大組織に所属することは、自分が考える最適解とは異なる活動を期待されるため、モチベーションが湧かずその強みが発揮できないだろう(NTJ型は秩序を好むため、合理的でないなぁと思いつつも、そこまでモチベーションを喪失しないだろう)。したがって、ST型とは異なり、NT型は社会人になると急速にその強みは失われるだろう。


■NT型よりも理想主義のNF型

 次は理想主義とN型の関係について述べておこう。

 NT型もNF型も理想主義者といえば理想主義者である。しかし、NT型とNF型の理想は異なっている場合が少なくない。

 NT型の理想主義における理想は、効率性や合理性あるいは利益などの観点での理想である。言ってみれば、「この車がカタログスペック通りの性能を発揮するのは理想的な環境のときのみだ」という場合における"理想"なのだ。

 一方、NF型の理想主義における理想は、彼らが「究極目的である幸福」を見据えているために、ヒューマニズムという観点での理想なのだ。ただ、彼らの主張はトンデモになり易い。これは、幸福というものが手段-目的連鎖の最後にくるものだからだ。大抵の場合、NF型が主張する理想はNT型が主張する理想よりも長い連鎖の果てにある。

 また、これがSF型の幸福であれば身の周りの個人的幸福の実現、すなわち「美味しい料理を食べれられて幸せ」「楽しい旅行に行けて幸せ」「子供が健康にすくすく育って幸せ」といったものになるので、幸福に至る手段-目的連鎖は大して長くない。しかし、NF型が考える幸福は国家レベルはおろか下手をすると全人類の幸福といった壮大なものとなる。あるいは当人の幸福だけで考える場合でも(死後も含めた)人生全体における幸福を考える。そんな遠大な理想の場合、その手段-目的連鎖は果てしなく長くなる。そして、そのような長い長い連鎖の各段階について妥当な形で設定することは、人間の能力を超えている。それなりの水準のものであっても、歴史に名前が載るほどの常人とは隔絶した人間でなければ提唱することは不可能だ。

 NF型が最終目的と設定するのは究極目的である幸福だ。その範囲を絞れば絞るほど実現可能性は高くなり、妥当なものになっていく。少なからぬSF型の人達が達成している、身の周りというレベルにまで落とし込めばNF型の理想は妥当なものになっていくだろう。




 この幸福とT型・F型の関係については、私がnoteでフォローしているイブリース氏の考察に依る所が大きい。


頂いたサポートは参考資料の購入費や活動費に充当させてい頂きます。