ブーケのようなご褒美を ep.なんで…?

 そろそろお店を閉めようかなという時間に外が異様に騒がしいことに気が付いた。ずっと図鑑を読んでいて気が付かなかった。赤い光がちらちらと見えている。

 何事かと思ってお店の外に出てみる。

 すると駅の方角から騒がしさが届いていた。駅前のロータリーには複数台のパトカーが赤いランプをチカチカとさせている。その周辺には恐らく報道の車。救急車までもが複数台到着している。現場は騒然としているのか、内容は分からないが叫び声はここまで聞こえてくる。

「葵衣!」

 母親の不倫相手が母親に駆け寄る。

 それを警察に取り押さえられている父親が怒鳴り散らしている。

「お前がっ!!不倫か!?てめぇが!!!」

 いつもの父親の罵りが刃のように不倫相手に降り注ぐ。

 でも微動だにしない。一心に母親の心配をしている。

 父親がパトカーの中に連れ去られる。まだ暴言をひたすらに叫んでいる。

 私だけがその世界から切り離されたようだった。

 呆然と見つめる。若い女の警察官が私の前にしゃがみこんで何か言っている。

 けど、私の耳には今起こったことが反芻している。

 自然と私は耳を塞いだ。

 昔の光景が脳内再生されているだけなのだから、耳を塞いだところで無駄なのだが、なにも聞きたく無くなった。

「すみれちゃん!!」

 ハッとした。幻聴だろうか?一星さんの声がした。少し低い、安心感のある私の好きな声。

「すみれちゃん!」

 また一星さんの声がした。今度はハッキリと。

 螺旋階段を見下ろせばそこには息を切らした一星さんがいた。現実から切り離されていた私を引き戻してくれた。心を失った時に戻りかけていた私を今の私に引き戻してくれた。

 螺旋階段の下で一星さんが必死に何かを言っている。けど、それは全てパトカーや救急車のサイレンによって掻き消されてしまっている。私の頭の上にハテナマークが浮かんでいるのがわかったのか一星さんは急いで螺旋階段を上ってきてくれる。

「一星さん…」

「大丈夫か?なんもない?変な人来てへん?なんもされてへん?嫌なこと思い出してへん?気にしすぎてへん?」

 怒涛のように一星さんから心配の言葉が降り注ぐ。いや、降り注いではいない。こんな時でも一星さんは腰を屈めてくれている。私に目線を合わせてくれる。私が怖い思いをしないように。

 心の奥底が締め付けられる音を立てた。

「何もされてません。変な人もきてません。大丈夫です」

 なるべく一星さんが安心するようにお話しする。

「よかったぁ、ニュースで見て飛び出してきてん。すみれちゃんのお店の最寄り駅だってわかった瞬間心臓止まるかと思ったわ」

 一星さん曰く、この駅を通る電車で車内テロが起きたらしく犯人を取り押さえようとした駅がこの駅だったらしい。ニュースでは犯人がどうなったのかは報道がいまだにされておらず、私を心配してここまで自分の車で駆けつけてきてくれたらしい。

 螺旋階段の下を覗くと白い車が止まっている。

「わざわざありがとうございます」

「いや、ホンマに良かった」

 普段ならここで終わるのだが、変なことを思い出したからだろうか。私は一星さんに甘えたくなった。

「でも、嫌な事を思い出しました」

 誰かに甘えるなんてしたことなくて恥ずかしくて俯く。一星さんはまた何も言わずに聞いてくれる。

「父親が警察に連れ去られた時のこと。サイレンが鳴り響いて、赤い光がチカチカしていて。父親の怒号と不倫相手の声。保護しようとする女性警察官の声。殴られた体がぎしぎしと痛くて、音がうるさくて。耳をふさいでも聞こえてくる色んな人の叫び声」

 ふと本当にあんな感じだったと駅の方を見つめる。自然と手は耳を軽く塞いでいる。

「耳にこびり付いて離れないんです。聞こえてくるたびに苦しくて、父親は警察署からまだ出てきていないし、母親は新しい家族を持って幸せそうにしてるし、自分が安全な場所にいると分かっているのに、いまだに怖い」

 自分の手が震えるのが分かる。サイレンの音は私を恐怖の谷に突き落とすのに充分だった。

「すみれちゃん」

 視線を駅の方から一星さんの方に戻す。同じ目線の一星さんが優しく柔らかく声をかけてきてくれる。こんなにも安心感を与えてくれる。そんな人が私を呼びかけてくれるそれだけでこれ以上ないほど幸せだった。

 けど、これ以上を望んではいけない。さっき気が付いた欠片は心の奥底に閉まっておこう。だって一星さんは…

「嫌だったら突き飛ばしてな」

 何の事だろうと思った瞬間、私は一星さんの香りに包まれた。抱きしめられている、そう分かるまでに少し時間を要した。

  一星さんを最初こそ怖いと思ったが、為人が分かった今は怖がる所が一つも見つからなかった。

 だってこんなにも優しくて温かい。だから、抱きしめられても何も嫌じゃなかった。

 私は少しの間、一星さんの胸に頭を預けて心臓の音を聞いた。心地いい。仕舞いこんだ欠片がカタカタと動き出すのを感じたが、きっと取り出しちゃいけない。ダメだ。

 私はまだ一星さんに体を預けていたい気持ちを必死に押し殺して、一星さんの体を少し押して離れた。

「アイドルがこんなことしちゃだめですよ」

 そう、私はただのカフェの店長、方や相手はこれから羽ばたいていこうとしているアイドルなのだ。

 というよりももしかしたらこんなことをしている相手の女の子なんてたくさんいるのかもしれない。うん、きっとそうに違いない。

 私は一星さんの顔が見れなかった。見てしまったらきっと後戻りできない。

「アイドルは大切な女の子が辛そうにしてても何もしちゃあかんの?」

 いま、なんて…?

 私は思わず顔を上げてしまった。少し悲しそうな複雑そうな顔をしていた。

「俺はすみれちゃんが苦しんで辛い思いをしているなら傍にいたいと思っとるよ。俺は近くでその辛い思いを半分持ちたいって思うし、その半分持つ相手は俺がええと思ってる。いや、俺じゃなきゃ嫌やとまで思っとる。それはアイドルとしてはダメな事かもしれんけど」

 一星さんは腰を屈めながらそこまで一気に言った。真剣な顔で、そんな、愛の告白みたいな事を言わないで欲しいと思う反面、嬉しいと思っている自分もいる。

 そしていつもみたいに優しくふんわりブルーレースフラワーみたいに笑って

「俺かて男や。好きな女の子くらい守りたいし、守らせてほしい」

 心に仕舞った欠片がなにかにハマった音がした。

 もう一度、その腕に包まれて穏やかな心音を聞いていたい。そう思った。

 けど、私は一星さんのライブ映像を思い出した。自分がここでもう一度その腕に包まれに行ってしまったら、何千人、何万人の女の子が失恋をすることになる。もちろん、そんなつもりで応援していない人もいるだろう。でも、彼女たちにとって一星さんはとても大切な人であることに違いはない。

 私は一星さんの顔を見ながら首を横に振った。だめだよ。私は何千人、何万人の女の子の失恋を背負うことはできない。

 一星さんは少し考えてから、私の手をそっと取って、相変わらず腰は屈めたままでじっと私を見つめた。

「ホンマにそう思ってる?」

「どうしてですか?」

「すみれちゃん、自分がわかりやすいの忘れたん?」

 一星さんの反対の手が私の頭に乗る。暖かくて大きな手。私の大好きな手。いつも大丈夫って言ってくれる手。

「すみれちゃんが思ってる事全部教えて。なんでも知りたい。全部吐き出して」

 私は一星さんの顔が見れない。俯いていると下から覗き込まれる。

「うわっ」

 いきなり端正な顔が覗き込んでくるものだから思わずびっくりしてしまった。

「なんや、傷つくなぁ」

「す、すみませ…」

「傷つけた罰やで、思ってる事全部言って」

 ニヤニヤと、してやったりな顔の一星さんが私の瞳に映る。ずるいなぁ、なんて思いながら、ここまで言われてしまったらもう逃げることはできない。

 私は観念して思っていることを全部吐き出した。その間も一星さんは何も言わない。静かにうんうんと聞いているだけ。さっきまであんなに言うのを渋っていたのが不思議なくらい、するすると言葉が出てくる。

「なるほどな」

 気がつくと私は思っていたことを全部、洗いざらい話していた。

「なら、すみれちゃん。一個約束しようや」

「約束…?」

「そう、俺らはこれからライブが控えてん。たくさんのファンの人たちを幸せにせなあかん。そのあと俺ドラマが決まってて、でもそれも全部ファンのみんなが応援してくれているから。ここまではわかるやんな?」

 私は一星さんが何を言いたいのかいまいち掴めなかったが、お仕事がもらえるのはファンの皆さんがいるから、それは理解ができた。

「俺は両方を最高な状態で仕上げる。つまりファンの人を満足させることができたら、またここに迎えにきてもええ?」

 まだ頭にハテナマークを浮かべている私に一星さんは少し笑いながら言葉を続けた。

「そうしたら、俺は恋愛をしながらでもファンの人を幸せにできるって証明にならん?」

 そこでようやく私は一星さんが何を言いたいのか理解した。一星さんは仕事をしながらでも大丈夫と言うことを私に証明しようとしてくれているのだ。

「なんで、そこまで…」

 もうこれは純粋な疑問だった。なんでそこまでしてくれるのだろうか。私にそんな価値があるとはとても思えない。

「好きやから。それ以外に理由ある?」

 自分の顔に熱が集まるのがわかった。直接的に言われたのはこれが初めてだ。もうここまで真っ直ぐに言われてしまったら、頷くしかない。

 私がかすかに頷いたのを確認すると一星さんは、よっしゃ!とガッツポーズをした。なんだか子供みたいで、おかしくて、ここまでが全部夢みたいだ。

 その後一星さんはちゃんと戸締りをするか確認したいから、というよくわからない理由をつけて私を部屋まで送ってくれた。ここまで一星さんが入ってきたのは初めてでなんだかドキドキしてしまう。

 私は「おやすみなさい」と言ってトビアを閉めて、ちゃんと施錠をした。

 そしてそのままズルズルとしゃがみ込んでしまった。今までが夢だったんじゃないかと思って頬をつねってみたがどうやら本当に夢じゃないみたいだ。

 ふと鏡を見ると頬は緩み切っている。明日も仕事だからシャンッとしないと。

 私は両頬をパチンと叩いた。


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