ブーケのようなご褒美を ep.恐怖

 一星さんがお店に顔を出せなくなって、寒い季節も温かくなっていく季節も過ぎた。イベリスの花もあと二ヶ月もしたら枯れてしまう。咲いているうちに来てくれないかなと思っていた期待はもはや希薄になっている。

 更に最近の私の憂鬱な気分の原因は冬あたりから来るようになった男性客。きっと最初はフラッと寄った程度だったのだろうが、なにか気に入ったのかよく来るようになって、今ではほとんど毎日来ている。

 気に入った理由は恐らく私だ。さすがの私も毎日のように来られて毎日のように、かわいいだの美人だの入れるお茶が美味しいだの言われれば好意に気が付く。そこまで鈍感じゃない。

 でも正直嬉しくない。もちろん一星さんがいるからというのもあるのだが、言葉の節々にとげを感じる。それにどこか自分の思い通りにしようとしている感じがする。こう、女の子なんだから何も知らないでしょ?と言われている気分になる。

 例えば、使っている食器。『イベリス』の食器はおばあちゃんが好きだったブランドだったり、キヨさんのオススメ、柳じいさんが趣味で作った物等、常連さんやおばあちゃんの思いが詰まった物を使っている。

 それを、このブランドは安っぽいだの、素人が作った物を使うなんてだとか言ってくる。そこからフォローのつもりなのか、俺が知ってるブランドを教えてあげるよ、コッチはイギリスの皇室で使われている食器で…なんて話してくる。

 そうは言われてもこの食器たちを変える気はない。そんな思いが態度に出ていたのか、ねぇ聞いてる?なんて言って私の腕を掴もうとしてきた。それを思いっきり弾いたら気分を悪くしたと大声を出してお店を出ていった。

 それでも次の日にもお店に来るのだから本当に何がしたいのかよく分からない。私にとっては怖い対象でしかなかった。

 酷い時には開店から閉店までいることもある。というか閉店時間になっても帰ってくれない時もある。閉店時間を告げると、早く帰れってこと?と顔に怒りを浮かべるから本当に困る。

 最近は見かねて常連さんやら日葵ちゃん、更には日葵ちゃんのお店のご夫婦までもが助けに来てくれて、常に常連さんたちの目がある状態にしてもらっている。なにかあった時にすぐに通報してもらえるように。これが本当に有り難く、ここ最近は特に何かされるという事はなくなった。ただじっと見つめられている。そして常連さんの目を盗んで触ろうとしてくる。頑張って避けることもあるが避けられないこともある。

 その瞬間いつもフラッシュバックするのは過去のこと。父親、上司、先輩。辞めての声が出せればいいのだが、その過去がフラッシュバックするとのどを掴まれたみたいに声も出せないし動けない。異変に気が付いた常連さんが私を呼んでくれるのだが、気が付いてくれないとそのままだ。

 何度も一星さんに言おうか悩んだ。でも忙しい一星さんに助けを求めるのは違うと、いつも文章を打ってから消してしまう。

 結局言えずにもうすぐ夏を迎えようとしていた。


 今日のお茶はディンブラのストレートアイスティーだった。今日は柳じいさんと紫苑さんが朝から来てくれた。例に漏れずあの人も開店と同時に一番端の席に座っていた。開店前から紫苑さんが来ていてカウンターの、私の目の前に座っていてその隣に後から来た柳じいさんが座っていたのでカウンターに座るのは遠慮したのだろう。

 今日も何もせずただじっとアイスティーを飲みながら体ごとこちらに向けてじっと見ている。

 紫苑さんはお昼を過ぎた二時くらいには仕事に戻っていった。その紫苑さんと入れ替わるようにキヨさんが来てくれた。キヨさんと柳じいさんの小競り合いを耳に入れながら、新しく来たお客さん用のお茶を入れる。今日の小競り合いの内容はどっちが先に歩けなくなるか、だ。物騒に聞こえるかもしれないが、いつものことだし、先にくたばるのがどっちだ、じゃないだけまだましだ。

 それに二人とも段々と腰も膝も悪くなっているのは明らかだった。仲がいいからこそのブラックジョークといったところだろう。

 三時くらいに柳じいさんは日課の散歩に出かけていった。キヨさんとお話していたら、日葵ちゃんの所の奥さんが休憩がてら顔を出してくれた。

 外は結構暑いらしく、今日のお茶はアイスティーですと言ったら即答で、お願いします、と言われた。

 私たち三人はお花の話が共通で出来るのであっという間に時間が過ぎてしまう。気が付くと奥さんがもうお店に戻る時間だった。

 奥さんが帰ってしばらくしたら今度は日葵ちゃんが来てくれた。今日はシフトが四時までだったらしく、遊びに来ましたぁ!といつものように元気に来てくれた。

 それと同時にキヨさんは私も散歩に行こうかねぇと立ち上がりお店を後にした。

 日葵ちゃんとお話をしていると、柳じいさんがもう一度来てくれてお菓子を差し入れしてくれたので三人でお茶を飲みながらお菓子をいただいて、楽しくおしゃべりをした。

 そこに紫苑さんも仕事の休憩がてらやってきて四人でお話をしていた。

 もちろん合間に新しいお客さんが来るので接客も織り交ぜながら。定期的に来てくれる主婦方々も、いつもここはにぎやかでいいわぁなんて言ってくれた。

 今日の賑やかさは会社員の人のお仕事には向かないかもしれない、なんて思いながらお茶を飲んでおしゃべりをして、接客をして。

 それでも異様なのはお店の片隅に座る男の存在。どんなにこちらの話が盛り上がっても何をしてもじっと私を見つめたままだった。アイスティーは長時間いるにも関わらず半分も減っていなかった。

 もうここまで来ると空気のように感じつつも、ねっとりと見られているのが異様な気持ち悪さを醸し出している。

 柳じいさんは夜ごはんを食べにお家に帰っていった。日葵ちゃんもさすがにそろそろ帰りますと言って帰っていった。

 さすがにもう夜の六時を回るころ。

「紫苑さん、お仕事大丈夫ですか?」

「ん?問題ないよ。何があってもいい様に昼間に死ぬほど仕上げてきた。後はアシスタント君たちが頑張ってくれてる。それに期限もかなり余裕があるからね」

「ありがとうございます」

 紫苑さんに軽くつまめるものを出して、おしゃべりを楽しんだ。気が付くと店内にはあの男と私、紫苑さんしかいない。主婦の方々はいなくなっていた。

 私と紫苑さんの会話は全部、あの男に筒抜けなのだ。そう思うと迂闊に口を開く事が出来なかった。その状況が過去を思い出してしまい、息苦しい。

 紫苑さんが軽食をつまんでいるのを横目に私は図鑑を取り出し、しおりを挟んでいる所を開いた。ページに意味はない。しおりに意味がある。

 私はこの一星さんに会えない間、このしおりと一星さんが出演しているテレビが心の支えだった。一星さんが頑張っている、だから私も頑張ろう、になったのだ。

 やると言っていたドラマは刑事ドラマで一星さんは難しい言葉をすらすらと言っていた。私には分からない世界。頑張ろうと思う反面ドンドン今までが夢だったんじゃないかと心配になっても来た。でもそんな時に繋いでくれるのがこのしおりだった。

 もしかしたら一星さんはもう私の事を忘れてしまっているかもしれない。他の女の子の所に行ってしまっているかもしれない。このしおりを大切に持っているのは私だけかもしれない。

 それでも良かった。今まで散々しんどい思いをしてきた。でも一星さんとお話した時期はご褒美みたいだと思えるほど幸せだった。神様からよく耐えたねって言って貰えたご褒美。だからまた耐えるのは何の苦でもない。大丈夫。

「はい、もしもし」

 図鑑から顔を上げると紫苑さんが電話を取っていた。視線がさまよって、口からは「あ~

」とか「う〜ん」という煮え切らない言葉が発せられている。時折視線が私を捉えている。

「ちょっと待ってね」

 紫苑さんは電話先にそう伝えると私をちょいちょいと呼び寄せた。そして小声で

「本当にごめんなんだけど、仕事で問題発生したっぽい…」

 つまりここにはもういられないのだ。時計を確認すれば閉店まで後30分。それくらいなら耐えられる。

 私は紫苑さんを視界に捉え、笑顔で頷いた。

「大丈夫ですよ、頑張ってください」

「本当にごめんね、なにかあったら遠慮なく電話して」

 その気遣いだけで充分だ。

 私は笑顔で紫苑さんを見送った。慌てっぷりを見るに本当に緊急事態だったのだろう。

 紫苑さんが使っていたコップを洗い場に持っていき、溜まっていた洗い物を片付ける。そしてテーブルを拭いて回る。

 ふと視界に影が落ちる。バッと後ろを振り返ればあの男が覆いかぶさるように立っている。しかも私が逃げられないように男の両手はカウンターについている。

 その状況だけで呼吸が浅くなるのを感じる。

「やっとふたりだ」

 男の呼吸が段々と荒くなっていく。私は男とは違う理由で呼吸が荒くなる。手がカタカタと震える。だめだ、こんなことで怖がってたら。

 私は男をキッと睨んでなるべく声が震えないよう注意した。

「仕事の邪魔をしないでください。まだ私には仕事が残っています」

「仕事?僕と二人しかいないのに?それとも僕になにかしてくれるの?」

 心のそこから気持ち悪いと思った。ニタニタと笑っている顔も、段々と両手の感覚を狭めているのも全部が気持ち悪い。

 母親の気持ち悪さとは違う。生理的な拒絶。

 来ないで、辞めて、そう思うのに体はもう恐怖に支配されてしまって動くことが出来ない。男の手が顔に近づく。

 それが父親を想起させる。全部がスローモーションに見える。怖い。気持ち悪いも全部取っ払って体も脳も全部が恐怖に染まった。

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