ブーケのようなご褒美を ep.大切な思い出
そこからしばらくはなんだかほわほわしたままだった。たった二文字。されど二文字。その言葉だけでこんなにも心穏やかに過ごせるのだ。
嬉しくなったと同時に私は一星さんを誰にも取られたくないという気持ちがふつふつと浮かび上がった。私にとってこの感情は怖い感情。
この感情のせいで父親は暴走し始めたのだ。この感情のせいで女性社員に陰口を言われるようになったのだ。この感情のせいで先輩の奥さんが怒鳴り込んできたのだ。
「独占欲」「嫉妬」これ以上に怖い人間の感情はない。
浮かび上がった嫌いな感情を沈める為に次の日からの毎日の業務はいつも以上に力を入れた。お客さんの入りはいつも通り。常連さんたちがちらほら来て、仕事の作業しに来る人がいて、主婦の方々の井戸端会議の場所になる。
それだけじゃ足りないから、またお裁縫をしていた。新しく作ったポプリを入れる為のサシェを作った。初めてポプリを作ってからサシェ作りにもポプリ作りにもハマってしまって月一で作るようにしていた。
それから、ドライフラワーの準備。人気なのはカスミソウなので手始めに作ってみる。今年はアマリリスのドライフラワーとブルーレースフラワーのドライフラワーを作ろうと決めていた。どちらも少し上級者向けで私には難しいかもしれないがチャレンジしてみることにした。
気が付くとあの電話から一ヶ月経っており、外では綺麗な紅葉が始まっている。やはり私はお花に触れているのがいいらしい。その日も気が付いたらお店を閉める時間。もうすでに心にあった嫌いな感情はどこかの風に乗って消えてしまった。
今日の売上金額を確認していると、今日一日待ち焦がれていた人から電話がかかってきた。
「一星さん!」
〈今時間ある?お店の下におんねんけど、ドライブデートしよ〉
私は携帯を片手に持ちながらお店から飛び出した。螺旋階段の下を除くと、自身の車であろう車にもたれかかった一星さんがこちらを見ていた。
よそ行きように被った黒い帽子に、薄く色の入ったサングラス。いかにも芸能人。でも、その姿を見ただけで血液が熱を持つのが分かる。
ぼんやりと眺めていると、薄く笑った一星さんに手招きされる。そこで我に返り、急いでお店に施錠をして螺旋階段をかけ下りた。電話はいつの間にか切られている。
「急にごめんな。んで、そんなに時間ないからとりあえず乗って」
助手席の扉をしれっと開けてくれた姿に少し胸が高鳴った。
「時間がないってこの後も仕事なんですか?」
助手席に乗り込んで、一星さんが車を回って運転席側に乗り込んでから口を開いた。
「せやねん。これからラジオの収録してリハーサルやな」
一つだけの仕事かと思ったら二つも仕事を抱えた状態で会いに来てくれたことに驚きを隠せない。
「またなんで急に?」
私が一番疑問に思っていたことを一星さんが投げかけると待ってましたとばかりに一星さんが口を開く。
「紅葉が綺麗なところ見つけてん。そんなに遠くないから連れてったろって思って」
もう季節は11月の真ん中まで来ていた。紅葉にはもってこいの季節だろう。
20分くらい走っただろうか。車の中は話が盛り上がり、私が最近仕入れたお花の話に始まりドライフラワーの話。それから一星さんの仕事の話、メンバーさんの面白かった話、尽きることなく続いた。20分があっという間に過ぎた。
「ちょっと待ってて」
一星さんは車を停めて、先に降りると私を乗せた時と同じように助手席の扉を開けて私を下ろしてくれた。
そこから少し歩いたところに小さな公園があった。
「わぁ…」
少し遠くから見ても分かるほど立派なカエデが見事に紅葉していた。
「綺麗やろ」
「よく見つけましたね」
「人目を盗んで歩くことはよぉあるからな」
なるほど。アイドルだからこそ見つけられる物だ。
カエデの木の下に行くと枝が四方にのびのびと伸びていて圧巻だった。下から覗き込むと暗くなったはずの空が、公園の明かりと共に視界を真っ赤にした。まるで手を伸ばせば届きそうな茜空みたいだ。
頑張ってぐぐぐっと手を伸ばしてみてもさすがに手は届かなかった。
「なにしてるん?」
客観的に見ていた一星さんが笑いを堪えながらコッチを見ている。
「茜空に手を伸ばしてるんです」
「あかねぞら…?」
笑いを堪えていた顔は、今度はきょとんとした顔になった。
私は手招きをして一星さんをカエデの木の下に呼んだ。そして同じように上を見上げるように言うと少し納得したみたいな顔になった。
「茜ゾラが手に入るかなぁ、なんて思ったんですけどやっぱりイカロスの翼でしたね」
「イカロスの翼?」
「神に近づき過ぎて蝋で出来た翼が溶けて消えてしまったっていう神話ですよ。人間という立場でありながら神に近づこうとした罰だって語り継がれてます」
キリスト教の七つの大罪、傲慢にも匹敵するその話は有名だった。
「でもその人は挑戦したんやろ?」
「え?」
「神様に近づきたくて挑戦したんやろ?それって凄い事ちゃうん?」
私はあっけに取られた。もちろん彼の慢心と父親の忠告を聞かなかったことのせいでイカロスは天から突き落とされる事になっているので、いいイメージを持つ事はないとされている神話をそう解釈する人がいるとは。
でも、考えてみれば他の人は神への冒涜だとか、不敬だと叩くことがあっても彼は己を信じて挑戦したのだ。それは誰にでも出来ることじゃない。99%が失敗だとしても1%が成功ならその1%にイカロスは賭けたのだ。
「一星さんは凄いですね」
「え?なにが?」
私の見えない考えを持って、私の見解を広めてくれる。あぁ、だから私は…
「それに、茜空全部は手に入らんくても」
一星さんは少し歩いて近くの茂みに引っ掛かっていたカエデの落ち葉をふたつ拾って私の手のひらに乗せた。
「一部分ならこうやって手に入れる事も出来るで」
手のひらに乗ったカエデはふたつとも綺麗に赤く紅葉しており、まだ落ちたばかりなのかまだわずかにしっとりとしていた。
「まぁ、すぐに萎れちゃうんやけどな」
「あ、それなら、押し葉にすること出来ますよ」
「押し葉?押し花みたいなん?」
「はい!まだ、このカエデの中に水分が残っているので少し時間は掛るんですけど…」
「ほんまに!?やってほしい!」
想像以上に一星さんが食いついてきたのがビックリだ。カエデが好きなのだろうか。
「すみれちゃんとの初デートの大切な思い出やん」
なんて心のそこから嬉しそうに話すから意図してなかったのにコッチまで嬉しく思ってしまう。草加、これも立派なデートだ。
「すみれちゃん」
いつになく真剣な顔で、腰を屈めて一星さんは私を見つめる。
「普通のデートが出来んくて、ごめんな」
一星さんの声には心の底から申し訳ないと思っていることが滲み出ていた。
きっといままでの彼女さんにそう言われてきたのだろう。なんとなくの私の予想だけど。
確かに一星さんはアイドルで、他の人たちのカップルがするような街中で堂々と手を繋いで歩いたり、テーマパークに行ったりなんて出来ないだろう。
「一星さん」
「ん?」
私は公園のちょうど対角線上の木を指さした。公園に入った時から気になっていた。この公園はよほど考えられて作られているんだなと思ったのだ。
「あそこの木、春にもう一度見に来ましょう?きっとまた違った空を見せてくれますよ」
一星さんは何の事か分からないとでも言いたげな顔をしている。
私が分かりやすいと一星さんはよく言うけれど、一星さんだって分かりやすい。けどこれは相手の顔をよく見ているからだっていうことに最近になって気が付いた。
「今度も一星さんのドライブで。楽しみですね」
何のことかいまだに分かってなさそうだったけど、私が楽しみだって伝えたら嬉しそうに笑ってくれた。
「そろそろ戻らな」
たった10分程度の公園デート。ドライブを含めても1時間もない。けどこれは私たち二人にとって立派な初デートで、とても大切な思い出。
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