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[地球一周165〜174日目] 知らない世界の空気を含んだ味


薄い漂白剤の匂いが漂うサンティアゴ空港。飛行機の中では既にピアスを開けてる赤ちゃんにお洒落さを感じた。一匹のハエとの縄張り争いを繰り広げながら、ホテルの朝食であるパン・トマト・スクランブルエッグに飽き飽きしている胃は砂漠で水を見つけたように渇きをステーキとビリヤニで潤す。
清潔感が漂うところと物価感も日本に近いのだが、ここにきてチップ文化が現れる所は面白い。
運動場の砂埃が鼻の粘膜にまとわりついた時のような冒険感を思い出させる南米。
そういえばスペインはマスクに厳しかったなと思い出し、偏西風にぐるんぐるんにされながら乗り継ぎ地のマドリードへ向かう。イベリア航空で通路側の座席を購入していたのにも関わらず、なぜか適用されておらず、12時間を真ん中座席にて過ごすという初の試みを実施。
くぐもってるクーラーの匂いがヨーロッパに入るとする。ふと久しぶりの香水の匂いに気づく。プンタアレナスは気づくとずっと陽が出ていたから、早朝フライトで夜と明け方を見れると和む。暑いクリスマスの雰囲気にまだ身体は慣れきれていない。

1時間ほどの睡眠を機内でとれたものの、たゆたってる感は続く。こぼれ落ちていく言葉たちをすくってスマホに入れる。バーガーキングのゴミ箱の前で自分が戻ってくる感覚を思い出す。誰かの言葉に救いを求めてYouTubeを漁るけど、その人でさえ生きているのはほんの少しの年数の違いであると気付かされる。

隣のおじさんが離陸前に祈りを捧げている。タンバリンのリズムがフラメンコっぽいアラブ音楽。
何だか後ろが騒がしい。男の人の強い口調に若い女の子がなぜか泣かされている。エジプトに降り立つと、出来立てのアスファルトのような匂いがした。都会はクラクションでリズムをとり始める。排水溝と下水の匂いの中でシャワーを浴び、トイレットペーパーが流せる日本のトイレを恋しく思う。映画「スピード」をテレビで見てたら、ラストのキスシーンがカットされていた。日本でも海外ではそのまま放送されるところにモザイクがかかったりということはあるけれど、実は知るまえに伝えられてないことは色々とあるのだろうなと改めて思う。

香港でも思ったが、ヒジャブを身につけている女性たちは色気をまとった美しさが増す気がする。色々な文化が感じられるとホッとする、同じ人種だけだと何だか孤独と違和感を感じるから。
ただ機内から感じるはりつめた糸が何かの拍子に切れてしまうようなピリつく空気感に不安はある。クラクションを聞くたびに責めたてられ息がしにくくなる。男性の客引きをくぐり抜け、やっと見つけた予約していたタクシードライバーと合流してチェックインする。翌朝、女性のホテルスタッフの顔を見るとひどく安心している自分に気づく。
ワールドカップの喧騒はそんな空気に少し似ていて、歓喜にわく観衆は微笑ましくもそのエネルギーが恐ろしくもある。

少し思い出せば胃のムカつきを感じる臭い。20度の涼しさとアスファルト、ゴミ、排気ガス、下水、よけきれていないであろう馬やラクダの糞の全てが合わさった臭い。「その道は違うよ、こっちがチケットを買える道だよ」と脇道に誘う声が、事前に調べて違うと分かっていても気持ちを揺らがせる。他者との関わりをシャットダウンするのと目に砂が入るのを防ぐために地面を見ながら歩いていると、「ミス、ミス!」と本物のピラミッドスタッフが正規の入口を指差している。熱心な押し売りとの区別がつかん・・・。
ピラミッドは大きいのだけれど、思ったより大きくない。クフ王だかカフラー王だか見分けのつかないピラミッドたちは、潔く高さをつくるためだけに石は積み上げられているように見える。見覚えのある後ろ姿のスフィンクス、大気汚染で霞んでいるカイロの街並み。ロンドン塔の時のように何だかピラミッドの側に近寄ることが辛かったので、早々に引き揚げる。
1964年東京オリンピック前の「街」や「川」が臭かった日本もこんな感じだったのかもしれない。買ったコカ・コーラの缶に臭いが染み付いていて飲み残す(1人用のポテチ×2袋、水500ml×2本、ジュース200ml×2本、板チョコ×1枚で350円という物価感)。

車線がなく、横断歩道もない。事故が日常茶飯事といわれる。乗り合いのバスはクラクションで乗る人を探す。
宗教感がどこにいてもするのはイタリアに似ている。ただ、イタリアよりずっと強い。テレビで時折、祈りの時間と思われる映像が流れると街中でも同じような音楽が鳴りひびく。

チョロチョロ出のシャワーにウユニを思い出す。他の部屋が使っているのか、時たま少しだけ元気を取り戻すけれど熱湯と冷水を行ったり来たりする。朝食のパンを噛むとスパイスの香りがほんのりする、バナナはそんなに美味しくない、臭みのあるポテチは多分ラム肉味だ。しつこいラクダの客引きを避けているといつのまにか糞だらけの砂漠にいて、抜け出るため低めの壁を乗り越えた時にひねった腰の弱々しい痛みが続いている。トイレに入る時には口呼吸をして耐えても、夜更けとともに濃くなる部屋の中の臭いはマスクやシーツで覆っても防げない。頭皮にできたヘルペスが少しだけ主張し始めている。

オリャンタイタンボやマチュピチュと同じくクリスマス感はない。エジプト考古学博物館では、多くの棺やミイラがあった。東京で以前見たけれど、やっぱり本場はまとう禍々しさが違う。こもる空気の中、ミイラに近づいていくだけで頭が痛くなり具合が悪くなった。まさにハムナプトラの雰囲気そのものだ。
ガイドはエジプト人の女性だった。「海外旅行に行きたいけれど、一度もない。多くのエジプト人にとってはビザや金銭的な面などで難しい。エジプトの将来は難題が山積みで暗い」と語っていた。
ある一角では多くの立ち並ぶ建物が壊れて内部が丸見えになっている。レンガを買うお金がなく、壊れてしまい住人は住処から追い出される。全体的に車体をテープで補修している痛々しい車をよく見かける。

衛生面、精神面に不安定感があるエジプト。
もちろんトイレを流せなかったり、チョロチョロシャワーだったり、糞やゴミがそのままにされてる道だったり、いつも霞んでいて青空と太陽が見えなかったり、そういう国があることは知っていた。でも理解っていなかった。

カーンエルカリリバザールにて、私が飲み残したマンゴージュースをカップを変えて盲目のホームレスのおじいさんに分け与えるガイドの姿を見ていた。普段からここに住んでいるようで、通りすがりの人たちがお金やパンを渡している姿も見かけた。  
それは自分事、という感覚なのだろうか。それよりエジプトの大人になっても家族と住む傾向が強い「家族事」のような温もりなのかもしれない、と博物館内で何度もハグとキスをして多くの友人と挨拶するガイドを見ながら思う。

シュクランと感謝を伝えると微笑まれるこの国で、何となく背筋が伸びるアラビア文字を眺める。1年が365日だと発見したのは約6000年前のこの地の人たちだと言われる。川幅の広いナイル川を「クレオパトラもこの川を見ていたのだな」と眺めていると、白と茶色と少しの青みを光は見せてくれる。ピタパンに挟まれたフライドポテトとファラフェル(そら豆をボール状にしてカラッと揚げたもの)を食べる。ピタパンの柔らかさとサラダのシャキ感とコロッケとポテト、それは自分の知らない世界の空気を含んだ味を教えてくれている気がした。

今日の音楽: The Mummy Returns (From "The Mummy Returns" Soundtrack)
三角が 見下ろす人は 変わらぬか

ひとりの人間の真摯な仕事は  おもいもかけない遠いところで  小さな小さな渦巻きをつくる           「小さな渦巻き」茨城のりこ