不思議な日本語、「共話」


今日会った方の中に、日本語の「共話」について論文を書いた方がいました。
共話とは、共感(Sympathy)による会話のこと。
相手の話に、肯定的な相槌を打ち、相手が話しやすいように励ますこと。
そして、自然に相手の話の続きを引き受け、途中から自分が話し、二人で一つの文を作ること。

(例)
1「今日は天気が良くてさ」
2「うん、うん」
1「部屋が暑くてさー」
2「わかる。ぼくも冷房つけたよ」
1「だよね? 私もつけた」

1が話すことを、2が相槌(うん、わかる)で肯定する。そして、会話の後半は2が引き継ぐ。

「今日は天気が良くて、暑かったから、私たちは冷房をつけた」
という一つの文を、二人で作る。
これが、共話。

(自分がポッドキャストやトークイベントで、「うんうん」「ほう」などの相槌をたくさん打つことを思い出しました。マイクが声を拾うから、うるさくなってしまう。あれも共話…?)
(そして、二人で話をするお仕事のときに、このように二人で一つの文を作っていることが多い、と気づきました)

論文を書いた方は、ヨーロッパで生まれ育ったそうです。だからこそ、日本語のコミニュケーションにこんな不思議な特徴があることに気づけたのもしれないです。

能の登場人物、シテとワキの会話も、共話になっているそうです。
例えばシェイクスピアの劇には共話はなく、二人の人間が、互いに異なる意見を議論する「対話」になります。

共話は、「私とあなた」が「独立した個人と個人」ではなく、「緩やかに繋がった一つの生き物」になって語ります。
まるで、複数の人が、一人の人になって、一つの独り言を言うような会話。
一つの川になって、一緒に流れるように。

共話ができると、日本の社会での会話に入りやすくなる、とその方はお話しされていました。
https://jnapcdc.com/LA/wellbeing/wellbeing_0202.html

でも、ということは…
逆に、日本の人が英語や中国語などの外国語で話すときはどうなのかな?
「共話」のコミニュケーションのままだと、不自然に聞こえてしまわないかな?
極端に従順に見えたり、どんな意見なのかが伝わらなかったりとか…?

共話はSympathy(自分と相手の考えが同じである前提で、共感する)の会話。
Empathy(自分とは異なる立場や考えを持つ人の視点から、物事を見る)のためには、別のコミニュケーション方法も必要なのかな…?

わからない…
よくわからないので、考え続けたいです。




余談ですが。
能の話で、世阿弥の考えの、

「無音を作るために音がある」(後の静寂を楽しむために、まず音を立てる)
「最後は器になれ」(大切なのは、床、壁、屋根ではなく、真ん中にある何もない空間である)

これは、わかる…と思いました。
「無」が好き、という感覚。
「物質」は有限だが、「無」は無限。すなわち永遠である。


余談,二つ目。
中華BLの話から、漢詩の話になり、「杜甫と李白、白居易と元稹が送り合う詩がブロマンスっぽい」という話になりました。
阿倍仲麻呂(中国に渡って、科挙の試験にも合格した人)が亡くなったとき、王維が悲しんで、詩を送ったそうです。「巨大な亀」「紅い目の魚」が出てくるダイナミックな詩。探して読んでみたいな…。

白居易と元稹は、詩を送り合っています。でも杜甫と李白は、杜甫は李白のことを書くけれど、李白はクールで、あまり杜甫のことを書かなかったそうです。親しかった阿倍仲麻呂が亡くなったときも、李白はあまり言及しなかった(?)。

詩を書かないから、感情が小さいというわけではないです。「人それぞれ」だと思います。
李白のことはまだよくわからないが、無が巨大なときがあります。お葬式でも、じつは深く悲しんでいる人が、黙って座っていることがあります。

詩人たちの個性が見えてくると、千年以上前の人たちなのに、まるで今も隣の国にいるかのように生き生きと感じられます。
引き続き漢詩を読んでいきたいです。

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