集英社ポケットマスターピース『エドガー・アラン・ポー』翻案メモ


集英社ポケットマスターピースのポーの本に、わたしが「おまえが犯人だ!」を翻案したものが掲載されています。
この作品は語り手が男性であるかのように長年翻訳されてきたけれど、わたしの翻案では女性にしました。
それについて、今年になって英文学の研究者の方からお問い合わせをいただいたので、返信したものです(↓)。

・なぜ語り手を女性にしたか?
古典には、現在の感覚では差別的だったり偏見を助長したりといった問題がある場合があります。例えば演劇では、そのような問題点に「演出することでコミットしていく」というアプローチが増えているように感じます。
NTL版『シラノ・ド・ベルジュラック』では、テキストでは意志や個性のないのっぺらぼうのようだったヒロインのロクサーヌに、自身の言葉で語るシーンを与えました。野田秀樹版『夏の夜の夢』では、〝じゃないほう〟扱いのサブヒロインのヘレナを主人公にしています。

最近面白かったインタビューがあります。
日本の古典『舞姫』(森鴎外)をいま読むなら、(ロクサーヌ同様に作者から実存を書いてもらえなかった)エリス側から読解するというお話でした。https://www.todaishimbun.org/anndouhiroshi_interview_20231106/
引用です↓
「あの作品は主人公である豊太郎の視点のみで書かれていますが、主人公が恋する少女、エリスの視点に立てばどのような作品に見えるでしょうか。エリスが厳しい生活に自分なりに立ち向かい、そして挫折する物語とも取れますよね。そしてエリスが抱える問題に、豊太郎は気付いていない。その視点の狭さを作品の面白さと捉えることもできます。このように、文学は立場を変えて読むと全く違う作品になりえます。そうやって読むことで、立場を変えて物事を考える力が身に付くのではないか」

映画でも、昨今そのような動きがあると感じます。
昨年ライターの山崎まどかさんから韓国映画『別れぬ決心』のトークイベントのときに伺ったお話があります。
古い映画には、男性監督による非現実的なファムファタールの女性キャラクターが多く出てきます。でも生身の女優が演じているから、女優の眼差しや佇まいや声から彼女の実存が伝わり、役柄も監督の意思も超えて深く読解できる、だから昔の映画を見ることにはまだまだ意味がある、というお話でした。

ようやく「おまえが犯人だ!」の話になります。
語り手は「I(私)」で英語では性別はわからないのではないか、翻訳のとき男性的になっているのではないか、という疑問がありました。(これについてはそのような評論を読んだのかもしれませんが、思い出せません…)
読者のわたしも「犯行を見極めて犯人を罠にかけるような冷静さと頭脳と行動力を持つのは男だろう」と思い込んでいたのではないか? つまりわたしにジェンダーバイアスがかかっており、ミソジニーを内面化していたのでは?
そこで「I」を女性にし、タイトルも「You are the woman!」に変えました。

このような形で古典の翻案をすることを〝ハッキング〟と呼ぶ人もいます。(「ホープパンクの誕生 ーなぜ抵抗が希望なのか」橋本輝幸 SFマガジン2022.2号)
例えばSF小説の古典「冷たい方程式」は約70年前に書かれました。宇宙には密航者を船外に放り出して殺すという掟があり、ギリギリの燃料で飛んでいるから仕方ないことだという設定で、密航した18才の少女を船員が殺す話です。
このラストは、自己責任論であることやシステムのエラーを問題にしていないことなど、複数の倫理的問題が指摘されています。そして70年もの間、たくさんの作家に翻案され続け、今では〝方程式もの〟というジャンル名まであります。
わたしが最も好きなのは日本で書かれた「修道士の方程式」(湯田伸子)です。密航者は10歳ぐらいの子供で、船長と船員が自分の片足を一本ずつ切り落として船外に捨てて子供を助けます。
以前からこのような文化に触れていたこともあり、〝ハッキング〟的な翻案をしようと考えました。

・キャラクターの造形について
小間使いの若い女性にしたのは、今の言葉で言う〝ホワイト・フェミニズム〟を避けたかったからです。
良い家に生まれて、活字も読める女性、高等教育を受けられた特権的な女性だけが賢いわけではない。彼女は労働階級の人で、オイディプスも知らないし、難解な単語や言い回しも一切使わない。そして頭が大変良い。そこにメッセージを込めました。

・語り手は殺人者でもあるか?
原作では、語り手の目的は犯人に自白させることだった、とわたしには読めます。結果的に犯人はショック死してしまいますが、語り手は「死ぬのは想定外だったが、悪い奴だからまぁいいか」と思っている、と感じます。
でも翻案には、より〝旦那様の敵討ち〟的なニュアンスが入っています。語り手が旦那様の死体を見つけて悔し泣きするシーンが付け足されているからです。
翻案でも、語り手の目的は犯人に自白させることで、ショック死するかどうかまではコントロール不可能ではないかと思います。が、原作より語り手が攻撃的であり、被害者との関係性が加わって復讐のニュアンスもあるので、仰るとおり「語り手が殺人犯でもある」という解釈は充分可能だとわたしも考えます。

語り手の台詞「私が犯人だ(I am the woman)」は、「私がショックを与えたせいで結果的に犯人を死なせた(過失致死)」という意味とも取れますし、「犯人が死ぬことを望んで脅かしたら願い通りになった(殺意があった)」とも取れると思います。

後者の解釈をするなら、そこに自分自身の作風も出ているかもしれません。わたしは〝目的のためなら手段を選ばない人物を描く〟作家だと分析されたことがあり、自分らしい主人公になったのかもしれないと思います。

また、タイトルに「woman」をどうしても入れたかったので、語り手に「I am the woman」「You are the woman」という台詞を言ってもらったという面もあります。
タイトルに入れたかった理由は、読み手のジェンダーバイアスへの抗議(読者としてのかつての自分に対しても)のメッセージのためです。

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