能と、明星の歌

能を見ることと、明星の歌を聴くことの間に、わたしは共通点を感じているので、そのことをなんとかして言葉で説明したいです。

わたしだけの感覚かもしれないし、日本の独特の感覚かもしれないし、万国共通の感覚かもしれないです。
そこはまだわかりません。


能(能楽、猿楽)は、古代中国の散楽が伝来し、独自の文化になりました。
登場人物は、シテとワキの2人です。
ワキは、旅人のことが多いです。
旅の途中、ワキが道で休憩していると、シテが通りかかります。
シテが「昔この場所で事件(戦争など)があったんですよ」と、ワキに歴史を教えてくれます。
この人が「前シテ」です。
シテが去ると、ワキは疲れ、眠り始めます。
やがて、眠ったワキの夢の中に、シテが華やかな衣装に着替えて現れます。
この人が「後シテ」です。
シテは「実はさっきの事件の話に出てきた、事件で死んだ人物は、私のことです」と告白します。そして「私はなぜ死んだか。どんな思いを人々に伝えたいか」を、舞いながら訴えます。
やがて、思いを伝え終わったシテは、静かに去っていきます。後には眠っているワキが残されます。
能にはこういう形式の物語が多いです。

能は「鎮魂」の芸術だと思います。
シテに亡くなった人が憑依します。みんなでその人の話を聞いて、その人のことを知る。そのために、役者と大勢の観客が一緒に行う儀式です。
わたしは、能を観た後、心が浄化されたような、空気の中の悪いものが祓われたような、晴れやかな気持ちになります。

添翼さんのLIVEは、わたしにとって、能に近い印象もあります。

わたしだけの感覚なのか、それともみんなも同じ気持ちなのか、本当にまだわかりません。

LIVEが始まるとき、座って聴いているわたしは、ワキのような立場です。
添翼さんが登場し、笑顔で「みなさん、こんばんは」「今週は忙しかったんですよ」と話してくれ、冗談を言ったりする。このときの添翼さんは「前シテ」です。
やがて「さぁ、歌いましょう」と、歌い始める。
このときの添翼さんは「後シテ」です。歌が、舞や謡のような存在だと感じます。

うまく言えないけど…

今はもういない人の存在を蘇らせて、教えてくれるような、魂のこもった歌唱です。
でも添翼さんがいなくなったわけではなくて、添翼さんも、同時にずっといます。
添翼さんの人生があり、添翼さんの独自の歌声があります。

これはわたしにとって、能を見ているときの感動に近いです。
歌を聴くと、悲しみが浄化されて、周りの空気が綺麗になっていくような気持ちになります。元気になり、幸せな気持ちになります。治癒系歌手、という言葉がぴったりだと思います。

わたしは添翼さんの歌を聴いていると、身近で亡くなった人のことを思い出すことが多いです。
とくに、懐かしい日本の歌を添翼さんが歌ってくれるとき、わたしは自分だけの死者を幻視しているようです。
そんな歌手は他にいません。
男性で、歌姫で、巫女で、聖なる憑代だと、わたしは感じているみたいです。
こんな歌声は聴いたことがありません。
わたしはこの歌声をずっと聴いていたいです。

添翼さんの歌を「物真似」と呼ぶことには、とてもとても強い抵抗感があります。
なぜならわたしは「大切な儀式」「祈り」のように思っているからです。
添翼さんも本物だからです。


今年一月ぐらいから、「どうして自分がこの歌手の声をこんなに愛するのかわからない。理由を理解して、説明できるようになりたい」と、ずっと考えてきました。
これも、理由のうちの一つだと思います。
でもまだずっと謎です。


あなたの歌声は、わたしにとって、謎のままずっと美しいのでしょう。

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