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不思議な日本語、「声明(しょうめい)」

また勉強会に行きました。

そういえば、先月ここに書いた、
「不思議な日本語、共話」
について、一つ書き忘れていたことがありました。

能は、シテとワキの二人芝居です。
シテとワキの台詞は、演者の所属する流派によっては、逆になっていることがあります。
でも、二人の台詞が入れ替わっても、まったくストーリーは変わりません。
それは、シテとワキの会話が〝共話〟だから。二人で一つの文を作るように、流れるように会話しているから、どの台詞をどちらが言ったとしても、内容は変わりません。

共話について論文を書いた人によると、シェイクスピアの戯曲を調べたら、〝共話〟は全くなかったそうです。誰かと誰かの台詞が入れ替わったら、ストーリーが変わっちゃう。(ですよね…😓)

やっぱり、これは日本特有の会話術なのだろうなぁ。
わたしたちは不思議な集合生命体です。


●声明(しょうみょう)
能「雷神」に、こういうシーンがあります。
「内裏(だいり)は、紅蓮の闇の如く、山も崩れ、内裏も虚空に遡るかと、震動、暇なく、鳴神の雷の姿は現れたり」

雷が鳴り、鳴神(雷神?)が現れるシーンです。
「現れたり」の最後の「たり」は、「たーーーりーーー」とすごく長く伸ばして発音します。
発音を矢印で言うと、「た→↑あ↓ぁぁ→り→ぃ↑ぃぃぃーーー→」と聞こえる。
これは仏教の用語で「声明(しょうみょう)」というもの。音をぐるぐる回すことで、歌い手が対象物(鳴神)に憑依します。
神が現れたシーンを、このように、歌い方で表現しています。

おそらく、死者の霊、妖怪が憑依するシーンでも、この〝声明〟が使われるのだろうと思います。

●同音異語
たとえば「夜」には、同じヨルという発音の「寄る」があります。
卯の花の「卯」も、同じウという発音の「憂」があります。
古文は、一つの言葉に、そのような複数の意味を持たせて書かれています。
歌う人も、聴く人も、複数の意味があることを知っています。だから「よーーるーーー」と、ゆっくり歌います。ゆっくりじゃないと、聴き手が複数の意味に気づいて、理解し、感動する時間が足りないからです。

●観世音(かんぜおん)
「数珠、さらさらと押しもんで、普門品(ふもんぼん)の唱えければ、さしも黒雲、吹きふさがり、闇の夜の如くなる内裏、にわかに晴れて、明々とあり」
ワキが数珠を使って普門品(観音菩薩)に祈ると、暗い空が晴れた、というシーンです。

古典にはよく「観音様にお祈りする」という台詞が出てきます。観音菩薩は観世音(観自在)とも呼ばれ、〝over look all〟という意味(?)。
どんなに辛い時も観音菩薩に祈ればスッと楽になると昔は信じられていました(法華経? 知識がなくてわからず)。

日本の人が、向かい合って、手を合わせてお祈りするときは、自分ではなく、相手に対して祈っています。〝あなたの中にいる観音様〟に、お互いに手を合わせています。
(すごいわかる感覚…。共話とも共通するかな? 目の前にいる人と、お互いに繋がっている、生命体として補完し合っているようなイメージ)

観音様は、様々な姿で我々の目の前に現れます。子供の姿だったり。時にめちゃくちゃ嫌なやつの姿で現れたりします。(これもわかる…あらゆるものに八百万の神が宿る、という感覚にも近いのかな? そしてこれも〝共話〟に通じている。自分と相手を共同体として扱っている)


●内的韻律
「数珠、さらさらと、押しもんで、普門品(ふもんぼん)の、唱えければ」

母音(アイウエオ)の組み合わせで韻を踏むことを言うようです。
「ア」は明るい響き。
「ウ」「オ」は暗い響き。
だから「さらさらと」の「さ(ア)」で明るい響きにしたあとで、「押(オ)」「普(ウ)」「唱(オ)」で、一気に暗くしている。
という説明だったと思います…

柿本人麻呂の和歌の、
「笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば」
も、
笹(アア)、葉(ア)、さやげ(ア)、と、明るい韻を踏んでいるそうです。
そうだったのか…(知らなかった)

40年前に、ある女子高校生が国語の授業で作ったという短歌があります。
「暁月に乾いた爪をじっと見て、一生いっしょにいるのもいいね」
これも、後半は、一生(イ)、いっしょ(イ)、いる(イ)、いいね(イ)、と韻を踏んでいます。

そういえば。
漢詩で、李清照「声声慢」の一行目、
「寻寻觅觅,冷冷清清,凄凄惨惨戚戚」
が、韻を踏んでいてすごい、という話を思い出しました。中国語がわからないから、わたしにはよくわからないのだけど…。


【追記】
今日聞いたお話では、〝声明〟が興味深かったです。
音を長く伸ばして歌うことで、神仏などが歌い手に憑依するというお話。
わたしは、添翼さんの歌を聴くとき、音が長く伸びると、この世ならぬものの出現の合図だと受け取っているかもしれないです。
とくに、出だしで、

「船歌」の「うぁぁーい…」
「云河」の「いんはぁー…」
「假如我是真的」の「ちゅるりるりるりーー」

と聴こえると、この世ならぬ場所にトランスするような、驚き、安心感、没入感、気持ちよさがあります。
永遠を感じる。
中国ではどのように聴かれているのかは、わかりません。この聴き方は自分だけのものか。それとも、国境を超えて普遍的な〝音楽の聴き方〟なのか。わたしにはまだわかりません。


今日は頭を使ったなぁ…

帰りにデパ地下で中国のお菓子を買ったので、食べて一休みします🥮

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