読書会を終えて

読書会は終わりました。内容は記録され、しかるべき媒体に掲載されます。
次の読書会のために、この本のことを引き続き考えます。

李さんの本を、「東アジアの抵抗の文学」の系譜の作品としても考えるべきだと思い始めました。

わたしは韓国文学翻訳家の斎藤真理子さんと、『少女を埋める』をテーマとする鼎談でお話ししたことがあります(週刊文春woman 2022)。
そのとき斎藤さんは、

・韓国文学は「正論」を盛る器である。
・文章は正しいことを言うためにある。
・韓国では歴史的に、武より文のほうが圧倒的に地位が高い。賢い人が科挙を受けて官僚になってきた歴史があるからだ。
・だから文を書く人には、「正しさ」「まともさ」「まっとうさ」を社会に示していくべきという考え方がある。

と仰っていました。
このことと、李さんの本にある「社会問題を小説にそのまま書いてはいけないという、日本の文壇に特有の考え方は間違っている」という考えは、繋がっていると思います。地下水脈のように。
李さん自身、「正論の鏡を持って照らす」と書いています。

さらに、緑島の刑務所の歴史を調べて知った「かつて政治犯として投獄された台湾の作家たち」のことも考えます。
これについては、わたしが無知なので、さらに調べる必要があります。
https://mp.weixin.qq.com/s/OvOkiInpkQbx92dz90tTvQ

斎藤さんとの鼎談の一部のコピペです(↓)。
自分用のメモとして残しておきます。
次の読書会の前に読み返すだろうと思います。

桜庭 『東京ディストピア日記』を単行本化した時に、トークイベントのゲストとして斎藤さんにお越しいただいたのです。実はその時に斎藤さんが教えてくださったことが、後に「少女を埋める」を書くときに影響したと、自分では思っているんですよ。

斎藤 どんなところでしょう?

桜庭 共同体の内部での忖度の文化とは対抗しがちな、「人道的に振る舞うこと」「人間として優しくあること」「倫理的に正しくあること」などの、個人の正義感を、わたしが「正論」と名付けて書いた部分です。

斎藤 「正論」という言葉、小説の中に何度も出てくるなと思っていました。「少女を埋める」から例を挙げるならば、「子供への暴力は絶対にいけない」「男だから偉いとか、若いからばかだなんてことは一切ない」とか。

桜庭 はい。そういった一つ一つのことをずっと感じていたけど、「正論」と名付けたのは初めてでした。トークショーで斎藤さんが、韓国の女性文学について、「正論」という言葉を使ってお話しされていたことが強く印象に残っていたからじゃないか、と作品を発表した後で気づきました。

斎藤 私は「少女を埋める」を読んで、異界との間に「正論」の梯子をかけようとする物語ではないかと思ったんです。
国家と家庭と個人、歴史と現在が絡み合い、肉親の生死をめぐってさえ、相手の肉声がはっきり聞き取れないような異界。特に私が注目したのは、主人公の祖母の満州からの引き揚げ体験です。国家が国民を守れない状況の中で、歪みが弱者に集中していきますよね。この小説は、国家による国民へのDVとそのPTSDの連鎖の物語とも読めるんじゃないかと思いました。そこに「正論」の梯子をかけて生き延びようとする主人公が、あらゆる思考と体験と人間関係を動員していく。
小説の中では、冬子が異界の摂理に飲み込まれそうになったり、価値観が揺らいだ時に、必死で握りしめるものとして「正論」がありますよね。
つまり、「正論」とは「どこかに漠然とある正しさ」じゃない。「異界に立ち向かっていくうえで一人一が装備するべき道具」として使っている。

桜庭 今の世の中でよく使われている「正論」という言葉とは、使われ方が逆かもしれませんね。世の中的には「相手の意見を論破する、言い負かすために使う凶器」みたいな意味合いが強いかもしれません。でもわたしは「自分の尊厳を守り、他者の人権を尊重し、現状維持ではなく社会をより良く改革するために使う武器」だと解釈しています。

斎藤 「正論」という言葉は使い方が難しいですが、日常的には「理想論」「原則論」といった意味で用いることが多いですね。
「韓国文学は『正論』を盛る器である」という説明を私はよくしてきたんです。この言い方では韓国文学の多様性を取りこぼしてしまうので、要注意ですが……。「正しいことを言うために文章がある」という考えは、韓国の書き手の中に確実にあると思う。韓国は歴史的に武よりも文のほうが、圧倒的に地位が上です。文を良くする人たちが科挙を受け、官僚になってきた歴史がありますから。極端にいえば今も、文を書く人は、「正しさ」といったら強すぎるけど、「まともさ」「まっとうさ」を社会に示していくべきという考え方が根底にあると思います。

石津 私は韓国の映画祭に毎年足を運んで、韓国の映画やドラマは浴びるほど観てきました。「武より文」であり、人には「社会を良くする使命」があるというメッセージは、韓国の映画の中にも現れています。
例えば『茲山魚譜』は、朝鮮王朝末期、熱心なカトリック教徒であったために島流しにされた実在の学者と、学問に興味のある若い漁師が出会い、師弟関係を結ぶ話です。論破するという意味合いの「正論」と、理想的な社会を追求する「正論」がぶつかりあいます。
こういう映画が作られ、そして韓国の映画賞を総なめにしている。日本映画ではあまりないことかもしれません。

斎藤 韓国映画を観ていると、普通の人が堂々と偉い人に向かって「正論」を展開する場面があります。例えば、「82年生まれ、キム・ジョン』が映画化された際にヒロインを演じた、チョン・ユミが主演した『私のチンピラな彼氏』という映画があるんですが。

石津 全然知らないです! 韓国ドラマも韓国映画も一生懸命観ているつもりだったのに…..。

斎藤 いや、知らない人の方が多いと思いますよ(笑)。就職活動でずっと落ち続けている女性が、面接で侮辱的な扱いを受けるんですね。
そのとき、ヘラヘラ笑っている中年の男性二人の面接官に向かって、「いくら私が弱者でも、基本的な人間的対応はすべきじゃないですか!」と言うんです。「ひどいじゃないですか」とかの感情論じゃなく。主語・述語・目的語がはっきりした、因果関係の明らかな「正論」を言う。
韓国では、自論を主張するプレゼンテーションの教育もあるし、自分の意見や考えを言葉にする訓練を学校で受けていることが関係すると思います。ただ、これって韓国だけじゃなく、わりとどこの国にもありますよね。

桜庭 そういう訓練、日本の教育には足りないですね。
わたしは感覚的に「これはおかしいぞ」と思うことがあっても、論理的にすぐ反論できず、悔しい思いをすることが多いです。これは「少女を埋める」で書いたことなんですが、ある方から「女の子が利口なのも考えもん(駄目)だなぁ」と言われ、違和感を覚えたものの、その場では反論の言葉が出てこなかった。ずいぶん経ってようやく「女であること、利口であることなどの個別性が聖痕になるなら、社会のほうが間違っているのだ」という論理が自分の中から出てきて、小説に書きました。今からでも訓練したいです。

石津 桜庭さんはライトノベルの新人賞でデビューし、その後一般文芸に進出し、『私の男』で08年に直木賞を受賞されました。純文学の作品を発表するのは、「少女を埋める」が初めてだったんですよね。書き方に違いはありましたか?

桜庭 今までは、自分とは違う主人公像を作り、エンターテインメント的なストーリーの中に、伝えたいテーマを溶け込ませて書いていました。
でも純文学の文芸誌に載るものなら、自分の中にあるテーマをむき出しで書いてみようと思ったんです。そう思えるようになったきっかけの一つも、韓国の女性作家の文学を読んだことでした。斎藤さんが訳した『82年生まれ、キム・ジョン」が象徴的ですが、自分の悲しみや苦しみの原因になるようなこと、この社会に暮らす自分たちにとって切実なテーマを、生々しく、「こんなにそのまま書いていいんだ!」という驚きがあったんです。

斎藤 おっしゃる通り、特に『キム・ジョン』は、ダイレクトなんですよね。
著者は社会派ドキュメンタリー番組の放送作家だった人。これは社会に対して問題提起するという目的のために、機能性を高めた小説です。
「これを言いたい」という目的のために小説が奉仕するのは敗北だ、と思っている人って、特に日本では多い。でも私は小説ってそれほど弱いものではないよなぁという気がします。

桜庭 例えば斎藤さんが翻訳した『ディディの傘』(ファン・ジョンウン)は、「セウォル号沈没事故」と「キャンドル革命」という、2010年代半ばに韓国で実際に起きた事件を題材にしています。『もう死んでいる十二人の女たちと』(パク・ソルメ)には、「光州事件」や「江南駅殺人事件」を思わせるお話が出てきます。
どれもフィクションのフィルターを通してはいますが、自分たちの歴史にずっと残るであろう事件や現代的な社会問題を表現するスピードが、韓国文学はものすごく早いし、深いです。
このテーマを届けたいんだ、というマグマのような情熱があり、その圧倒的な切実さを極めて的確な声で伝えています。


以上、一部の抜粋です(↑)
ちなみに、この鼎談の次のページに、李さんと温又柔さんによる対談「SNSのヘイトと戦う。」が掲載されていました。

李さんの過去の作品のいくつかには、台湾の歴史として「ひまわり学生運動」(2014)が登場しています。


あと、どの媒体で読んだかを、わたしが忘れてしまったのですが…。
同じく斎藤さんが、韓国の作家について、こう言っていたというメモをみつけました(↓)。(SPBSの批評講座の準備のメモ。2024.2)

日本では、何らかの差別問題の非当事者の作家が、その問題の当事者を主人公にして小説を書くことについて、批判の声が強まっている。
「充分に調べないまま書いて、差別や偏見を助長している」「当事者の苦悩を物語の興奮のために利用している」という批判だ。
一方、韓国ではそのような批判は少ない。
それは「作家は社会における声なき者たちの代弁者だ。代表だ」という考えが強いからだ。
韓国には、政府からの弾圧、日本の植民地支配などの歴史があり、「誰かが声を残さないと、かき消されて、なかったことにされる」という使命感があるのではないか。

以上です(↑)。
わたしのメモを元にしているので、不正確であり、斎藤さんがこうは仰っていなかった可能性があります。


それから、女性文学、フェミニズム文学としても今一度よく考えるべきだろう…

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