中国の詩「清平調」

昨日、『漢詩への招待』(石川忠久)という本を読んでいたら、李白の「清平调」が出てきました。

今月14日に、添翼さんがこの漢詩の歌を歌っていました。どんな詩なのか気になっていました。楊貴妃の美しさがテーマの歌のようです。

「清平调」李白
云想衣裳花想容
春风拂槛露华浓

若非群玉山头见
会向瑶台月下逢
一枝秾艳露凝香
云雨巫山枉断肠

借问汉宫谁得似
可怜飞燕倚新妆
名花倾国两相欢
长得君王带笑看

解释春风无限恨
沉香亭北倚阑干

(訳)
雲は絹のよう。花はかんばせ。春風が吹いて露が潤う。
人が住むのは、仙女の山か月の宮か。艶やかな花は、梅雨の香りを凝らし、美の女神さえ色をなくすほどだ。漢の世と比べるなら、化粧をしたばかりの飛燕のようだ。
牡丹と美人、二つの眺め。にこやかに見る天子の喜びよ。吹く春風に絶えぬ風情。沈香亭北は欄干による。


743年。
長安の都の宮中で、牡丹の花が咲きました。玄宗と楊貴妃が花見をしました。
楽師が歌おうとしたら、玄宗が、
「美人と花を前に、古い歌も野暮だ。李白を呼んで新しい歌を作らせよう」
と言い出しました。
そのとき宮廷詩人の李白は、町の酒場で酔っ払っていました。でも呼ばれて宮中に行き、すぐ歌を作った。それがこの詩です。

でも玄宗の部下が「楊貴妃の美しさを、漢の趙飛燕という、不幸だった人に例えるなんて無礼だ」と言い出しました。どうやら李白はこの付人の恨みを買っていたらしい?
そして李白は翌年、宮中から追放されてしまいました。宮廷詩人の仕事は、たった3年で終わった。
このとき李白は44歳。
李白は気ままな放浪の旅に出ます。
そして洛陽で33歳の杜甫と出会いました。

李白は、酒を飲むと陽気になる性格。宮中の窮屈な暮らしを嫌い、過去のことでクヨクヨしない明るい人。詩も一気に書く。才気に溢れていました。
杜甫は逆に、酒を飲むと悩んだり不安になったりする性格。詩も格調があって、隙がない作風でした。
後の世で、人々は李白を詩仙(仙人)と、杜甫を詩聖(聖人)と呼びました。

そんな対照的な性格の杜甫と李白は、意気投合しました。詩人仲間と一緒に、河南から山東へ愉快な旅をします。
そして翌735年の秋、山東省の石門で別れました。杜甫はこれから、長安の都で仕官する予定だったのです。
李白は、杜甫に別れを告げる詩を送りました。

「鲁郡东石门送杜二甫」李白
醉别复几日
登临偏池台
何言石门路
重有金樽开
秋波落泗水
海色明徂徕
飞蓬各自远
且尽林中杯

(訳)
酒に酔って、もう何日? ここにきて別れを惜しむ気持ちでいる。
いつの日かまた、この石門の道で君と盃を交わす日が来ますように。
秋の水が川に落ちる。海の色が映える。飛ぶ蓬が離れ離れになっていく。
まずはいま、別れの酒を飲み干そう。

そして、二人はこの後、2度と会うことができませんでした。

杜甫は、長安に行ってから2、3年後、李白を懐かしみ、こんな詩を書きました。

「春日忆李白」杜甫
白也诗无敌
飘然思不群
清新庚开府
俊逸鲍参军
渭北春天树
江东日暮云
何时一樽酒
重与细论文

(訳)
白、君の詩は無敵だ。飄々と非凡な着想。新鮮さ。庾信にも似て、素晴らしさは鮑照のよう。僕は思う。春の渭水、君は遥か江東の果て。いつの日か酒樽を囲んで、2人でまた詩を論じたい。


さて、同じ頃。
日本から来た阿倍仲麻呂も、長安の都にいました。初めは留学生でしたが、後に高官にまで出世しました。
752年。阿倍仲麻呂がとうとう日本に帰ることになり、送別会が開かれました。
そのとき、王維が送別の詩を読んでくれました。

「送秘书晁监还日本国」王维
积水不可极
安知沧海东
九州何处远
万里若乘空
向国惟看日
帰帆但信风
鳌身映天黒
鱼眼射波红
乡树扶桑外
主人孤岛中
别离方异域
音信若为通

(訳)
道遥か、海の果ての東の、君の故郷よ。
中国を遠く離れて、いま帰る、君の万里の旅路よ。
道すがら、日を見て、帰り船はただ風まかせにいくだろう。大亀は黒い背中を見せ、大魚の目は赤く煌めくだろう。
旅を終えて故郷に戻れば、君は孤島に住む人となり、別れてしまったこちらの世界とは、手紙を出し合うことももうできないだろう。

(王維から孤島って言われてる…😵 ここは島だし、小さいし、確かに孤島だ…)

でも阿倍仲麻呂の乗った船は、難破してしまいました。
李白は彼が死んだと思って、悲しみ、追悼の詩を書きました。

「哭晁卿衡」李白
日本晁卿辞帝都
征帆一片绕蓬壶
明月不帰沉碧海
白云愁色满苍梧

(訳)
日本の晁卿が都に別れを告げ、船はるばると蓬壺を目指した。月は戻らず、青い海に沈んだ。空には悲しみの雲が浮かんでいるばかりだ。

阿倍仲麻呂は、ベトナムに漂着して、長安に戻ってきました。それきり故郷に帰ることはできず、長安で亡くなりました。
彼が、故郷を思って書いた和歌です。

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
(訳)
(あの月は、懐かしい故郷の春日の山にかかっていたのと、同じ月なんだ)

(ここまでの流れを踏まえて読むと、初めて素晴らしい和歌だとわかりました。異国の地にて、望郷の念、耐え難し)



…というお話が、漢詩の解説と共に、わかりやすく書いてある良書でした。続きも読もう。


【追記】
755年末、玄宗が遊んでいる間に、敵が攻めてきて、洛陽が征服された。
756年6月には長安も征服されそうになり、玄宗は燭に逃げた。楊貴妃はその途中で殺された。この顛末が白居易の「長恨歌」に歌われている。

740〜756年ぐらいの間にいろんなことがあり、いろんな詩人が歌っているのだな。唐詩の熱い時代ということだろうか。

【追記2】
この戦禍で、杜甫は敵軍に捕まる。

有名な「春望」はこの時期に書かれた。「国破れて山河あり」で始まる、日本でも松尾芭蕉「奥の細道」で引用された詩。

「春望」杜甫
国破山河在
城春草木深
感时花淀泪
恨别鸟惊心
烽火连三月
家书抵万金
白头搔更短
浑欲不胜簪

(訳)
国破れて、山河あり、春が巡り、草がまた繁る。夜を嘆き、花に涙し、家を思い、鳥に驚く。戦さの火は三月も続き、宝とも、この白髪をかけば短く、かんむり(士官すること)もできない。

この後も、杜甫は運命の流転と共に詩作を続け、後の世の人に「詩史」と呼ばれた。杜甫がその時々の歴史を、個人の生活とともに書き残したから。

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