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memo.|76年前、ヒロシマからそう遠くない島

今年は札幌で過ごしている、8月6日。広島県で生まれ育った一人である私にとって、この日付はいつも特別だ。今日、周りでどんなイベントが起きていても、まず思うのは原爆投下の日ということ。何日も前から心がざわつく。

今年こそ見に行きたいと思っていたとある神社の例大祭が、昨年から2年連続して中止となった。これまでの中止は1945年のみだったという。その例大祭の関係者で、戦争を知る世代の人がコロナ禍と戦争を「同じようなものだ」と語っていた。その言葉はなんて重いのだろう、と思った。

東京五輪を前にして、IOC・バッハ会長が広島市を訪問したけれど、今日開催している東京五輪で黙祷は呼びかけられないという。その報道を聞きながら、アメリカ・アラスカ州に留学した頃のことを思い出していた。

現地の友人とともに、知り合いの夫妻を訪ねたことがあった。すでにリタイアして自宅でゆっくり過ごしている世代の方々だった。私が広島県出身だと伝えると、妻の方は「I am sorry.」と悲しげに言い、夫の方は憮然と「I am not.」と言った。その感情の違いが何なのか聞くことができなくて、しばらく沈黙した。アメリカには広島・長崎への原子爆弾投下を必要なことだったと正当化する人もいると聞いたことはあった。彼にもそうした思いがあったのかもしれない。帰り道、一緒にいた友人に「あんまり人にヒロシマ出身だと言わない方がいいんじゃない?」と言われた。ヒロシマは、気まずさや混乱を招く地名でもあると知った。

その後しばらくして、アラスカ州のポイント・ホープという先住民イヌピアットの町を訪れた。1950年代に核の平和的利用として、核爆発による人工湾の建造が計画されたこともある北極圏の町だ。計画は中止となったが、核廃棄物が町の近くに埋められていたことが後々発見された。町の人たちは核爆発の計画中止や汚染された土壌の撤去を求める中で、広島・長崎への原子爆弾投下の被害を学んでいたという。私が広島県出身だと伝えると、とてもあたたかく迎えられたことが印象に残っている。

同じ時代に生きて出会っても、歴史の中のある一日に、全く異なる感情を抱いている。

私の祖父は、原爆投下翌日の広島市に母と妹を探しに行った。2人は見つからなかったという。祖父自身は当時のことを全く語らないまま亡くなった。家族の中で「何も語れなかった」「語ってもらえなかった」ことの重みがずっと心の中にある。

ヒロシマは、私にとって近くて遠い。

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今年の3月に一度帰省してから帰っていない、広島県の実家。3月に撮った写真を振り返ってみる。呉市の倉橋島・音戸町だ。広島市まで、バスや電車で2時間程度の町。

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実家から徒歩5分のところにある大浦崎公園。小学生の頃の夏休みはいつも歩いて泳ぎに行っていた。浜辺の裏手は小山になっていて、暗い防空壕の入り口にお地蔵様がいる。覗くと真っ暗で、岩を削った痕跡が生々しく、怖くて避けていた場所。

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穏やかで、海水浴シーズン以外は静かな海辺。元日には初日の出を見に近隣の人たちが集まってくる海辺。ここに、かつて「特攻基地大浦崎(P基地)」があった。呉海軍工廠の分廠があり特殊潜航艇が建造され、広島・長崎への原爆投下と終戦の年・昭和20(1945)年には人間魚雷「回天」も実用段階だったという。

終戦とともに基地は廃止となり、町内にいくつかの碑が残るばかりだ。

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76年前の8月6日。原子爆弾の熱線で一瞬に焼かれた人たち、被爆しその後何年も何十年も苦しんできた人たちがいる。8月6日は自分たちと同じような、ごく普通の人たちの人生をあまりに大きく変えてしまった日として記憶され、「このような悲劇が二度と繰り返されぬよう」平和への誓いを新たにする。

76年前の、あのあまりに大きな悲劇が起きるまで、人々はどのような日々を過ごしていたのだろう。今年はそのことがとても引っかかる。新型コロナウイルス感染症の影響がますます広がっていく毎日が、とてつもなく悪い出来事へと向かっているような気がするからかもしれない。

76年前、ヒロシマからそう遠くない場所では、人間魚雷となるために日々を重ねていた人たちがいた。あの戦争は人間を魚雷にするほどに追い込まれていた。なぜ人間が魚雷になって、自らの命を捧げなければならないのだろう。事実として知っていても、その時代の人たちの語りを聞いても、共感できないことの大きさに戸惑う。

何も知らないまま焼かれた人たちを悼むとともに、魚雷になろうとした人たちのことを、もっと知らなければならないのではないだろうか。そして自分自身に問いかける。今、とても大きな誤りを見過ごしてはいないかと。膨大な情報から何を選んで信じたらいいのかわからない中で「実行することが自分の役割」と、より大きな混乱に加担してはいないかと。

原子爆弾投下という悲劇にまで行きついてしまったあの時代、人々はどう生きていたのか。広島から遠く離れても、今それぞれの場所で考えなければいけないことがあるのだと思う。

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