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調布

 ベーシストの松永孝義さんが亡くなって、もう三ヶ月以上の月日が経った。未だに、彼がこの世にいない事にそれほどの実感が無く、長い入院生活の後に戻ってくるのであろう、と言うような心持ちが捨てきれず(いや捨てたく無いのであろう)、そんな状態で彼にまつわる仕事を切り抜け、事実を受け入れる事が出来るようにもなってきた気がするが、すっかり季節は変わってしまった。とは言え、松永さんの事を書くと決めたものの、そう筆は進まずひとまず焼酎を煽る事にする。


 7月はあわただしく始まった。と言うより、6月の忙しさのまま月が変わった。Lonesome Strings and Mari Nakamura / Afterthoughts の制作も終盤に差し掛かる頃だったが、いろいろな仕事が重なり、まとまった作業時間が作れない状態だった。そして、7月初旬のカルメン・マキさんのツアーで名古屋、大阪、福井へ出向いた。このツアーに参加予定だった松永さんはギリギリまで何とか参加しようと頑張っていたようであるが、直前で再入院してしまった。なので、マキさんの他、ヴァイオリンの太田惠資さんとピアノの清水一登さんと私で乗り気る事になった。

 名古屋TOKUZOでのライヴは快心の演奏だった。アンコール直後のマキさんの笑顔がなによりそれを物語っていた。終演後はいつものように、店長の森田さんと松永さんがいるかのように相撲の話をして盛り上がった。大阪では打ち上げで清水さんと酌み交わした。盛り上がってきたら、突然ピアノのふたを開け弾き始める。なんとキャプテン・ビーフハートだ。武生は引き締まった演奏だった。打ち上げでの焼き鯖がさすがに旨い。宿でしみじみ太田さんと杯を交わした。そして、最終日の三国は本当に楽しいライヴだった。終演後皆で松永さんに乾杯した。マキさんは松永さんがいつものようにいたようなライブだったとぽつりとこぼした。

 ツアー終了の翌日、7月9日の帰路は皆別々で、私はホテルのチェックアウトより大分早い時間に福井から特急に乗った。雲が多い空だった。が、その雲の切れ目から差し込む日光はするどく、北陸本線沿線の山間の輝きは陰影に富み、もっと車窓からの眺めを楽しみたかったが、あっという間に米原に着いた。乗り馴れている東海道新幹線の座席に着くと、もう帰京した気分で、文庫本を数ページ捲っただけで眠りについてしまった。

 この週は週末にライヴがあるのみで、まとまって作業に集中できる5日間だった。ここでほぼMIXを終わらせ、そろそろ第一稿が来るDVD編集やジャケットデザイン、ライヴ告知等にそなえるべくほぼ予定通りにスケジュールを無理なく想定していた。MIX自体の方向は既に見えていたが、些細なところで中村まりさんとのやりとりが続く。細かい部分なので、客観性を保つには、若干時間が必要だったが、5日もあれば十分である。という事で、帰宅したその日は殆ど作業せず、冷静に聴きなおした。ツアーの間、この音源から離れていたので、新鮮に響いたが、根本から考え直したい曲も二曲程あったので、翌日からは集中し、ボーナストラックのライヴ録音含め、7月11日には、ほぼ道筋は出来上がっていた。

 7月12日。午前中に前日のテイクを確認し、再調整に入る。思いのほか、修正点が多く、私のミキシングの経験では、なかなかに難しい部分も多かったが、携帯電話の電源も落とし、メーラーも開けず、作業に没頭した。その甲斐あってか、日が暮れる前には目処がついた。そろそろガタが来ているともいえる音楽作業用のG4の電源を落とし、冷却も兼ね少し休ませる。そして、この日ようやく通常使っているノートブックに火をいれ、一服着けながら、メールを確認する。かなりの数の新着メールがあった。最新は16時過ぎに届いた伊豆スタジオのエンジニア濱野さんからのものだった。携帯からだったのか、タイトルは無かった。この後に及んで濱野さんからの連絡は気になるので真っ先に開けた。愕然とした。松永さんの訃報を知った、と記されている。それより前に届いているメールも確認する。デマや嘘では無いように思えるがわからない。ようやく携帯も確認する。おびただしい数の着信と伝言だった。あまりにも突然で唖然としたが、涙があふれてきて、机の下に突っ伏した。つい数分前まで、松永さんのアルコを調整していたのだ。そして、今、自分が何をどうすべきなのか全くわからなかった。

 しばらくして、涙も涸れた頃、留守番電話の伝言も確認した。玄さん、原さん、中村さん、皆一言しか残していないが、声は沈んでいた。そして、フランスにいる妻より、明日予定どおりの帰国の連絡の電話があった。まず、訃報を伝えなければならなかったが、彼女と久しぶりに会話したのは救いだった。

 深夜に差し掛かる頃、ようやく松永夫人の希さんと連絡が取れた。昼間幾度となく電話をくれたようだったが、すぐには連絡を取る気持ちになれなかった。そして、ようやくつかまった。最初少しだけ冷静を保とうとしていた希さんだったが、すぐに泣き声になっていた。無理も無い。松永さんは実家に眠っていて、友人、関係者が集まっている旨を涙声で聞くが、明日の夜に伺う、と告げ、電話を切った。

 松永さんと希さんはリングリンクスで知り合っている。私も録音に参加しているバンドである。真っすぐにどっしりとした音楽性は私には不適合だったようで、アルバム2枚に参加したが、その後は呼ばれなかったし、ライヴ参加も1~2度だったと記憶する。なによりリハーサルやレコーディングでよく駒沢裕城さんに説教されていた気がする。が、私としてもこの正統な音楽をやっているこのバンドで唯一まともな人は、当時まだ若くて発言権が薄かった希さんは別とすれば、普通に話を出来たのは松永さんくらいだった。そんなことを思い出し、眠りについた。

 翌日、午前中に妻を迎えに行く。ホッとする。帰宅し作業の続きを試みるが、耳がおかしい。理由はわからないが、悲しみと急激なストレスであろう。何一つ進まず、夜に松永さんの実家がある調布に向かう。

 彼は眠っていたが、冷たかった。亡くなった事を実感したのは、未だにその時だけだ。礼を言うと、また涙が溢れてきた。横で希さんが何を言っているのか分からなかった。それから、どれくらい時間が経ったか全く見当がつかなかったが、その冷房がかなり効いている松永さんが練習室に使っている部屋で、再び彼に挨拶して奥の居間に案内された。

 家族の方にお悔やみを申し上げ、ビールをいただいた。オーバーヒートの社長や近藤達郎さんがいるテーブルについた。
 「桜井芳樹君じゃないか。久しぶりだな」と声をかけられた。その長髪の御仁が一瞬誰だか分からなかったが、私をフルネームもしくは名前で呼ぶ数少ない人の一人、こだま和文さん。「そろそろ、おいとまの時間なんだけど、芳樹君が来たので、もう少し飲むか」と酒飲みの当たり前の口実の挨拶だ。

 正式な通夜では無いが、通夜のようなものだ。昔はこんな感じだった、と、そう数は多く無い経験だが、身に覚えのある喜ばしくは無いが懐かしく感じる雰囲気だ。通常の旨い酒とは全く違う酒だが、無理矢理飲んでいる訳では無い。ゆっくりといろいろな事とともに噛み締めているのだ。

 こだまさんと少しずつ話をする。
 「数年前のMUTE BEATの再結成の時は、本当に松永さんは嬉しそうでしたよ」
 「本当かよ。あいつそんな事一言も言わないよ。だいたい打ち合わせの時から、ブスッとしてたよ」
 「でも、こだまさん酔っぱらっていたんじゃないですか」
 「まあな。だけど、それなら少しくらい表してくれよ。だいたい、あいつは俺だけには厳しいんだよ」
 「いや、僕も何度かありましたよ。そういうときはいつにも増して、電話口でゆっくり喋るんですよ。(いいか、何が一番大切か、分かってるか?)とか」
 「時々、あいつは偉そうなんだよな。で、芳樹君はなんて答えるの」
 「いや大先輩ですから、おとなしく聞いて謝りますよ。でも、留守電に三回続けて、もう辞める、二度とやらない、と録音されてたり、とかありましたよ」
 「理由は?」
 「それが、留守電のメッセージは三回とも同じで、もう辞める、二度とやらない、しか入っていなくて、で、翌日一緒に飲みました。で、今度宜しくね、と松永バンドのライヴの件で念を押されましたね」
 「あいつ、冷静でいてそういう後先考えないところもあったんだよな」 

 静かに酒が進む。全く酔わないが、この奇妙な酒の席の居心地は悪く無い。何杯継がれても、献杯だ。

 隣では、希さんが事務的な段取りを進めている。大変な事だ。通夜、告別式の日程が決まり連絡や情報解禁等、大わらわだが、酒を酌み交わし、いくつかの方面での連絡を請け負う。多方面で仕事をしていた松永さんなので、人脈的に連絡が重なる方も多いかと思うが、それはある程度致し方ない。そして、希さんよりの提案を聞く。それは、昨年のミュージカルで弾いたベースソロ(アストル・ピアソラのコントラバへアンド)の音源を調達して欲しい、との事だった。出棺の時に流したいとの事だ。幸い東京公演の1日を録音してもらっていたので、すぐに用意できるものだった。

 その昨年の11月はほとんど毎日松永さんと一緒だった。初旬は小松亮太君のリハーサルやコンサート。中旬からはその亮太君が音楽監督のミュージカルのリハーサル、ゲネプロ、本番がほぼ三週間1日のオフ以外ぶっ通しで続いた。

 二年程前、松永さんが癌を煩ってからは、現場にも希さんを伴っている事がほとんどだったが、この頃は時折一人でスタジオに来る事もあった。抗がん剤の所為か、髪は少なく白くなったが、経過は順調なのだろう、と思った。私はほぼ毎日隣で弾いていたのだが、ゲネプロでようやくいつもの楽器では無い事に気がつき、その旨を告げると、ふっふっ、ようやく桜井君がわかったか、と返された。が、実は、その楽器はレコーディングには時折登場したのは知っている。特にタンゴの時はそうだったように思う。随分前に、何故?と聞いたら、マイク付けたく無いんだよ、と言ったのは良く憶えている。が、最近、マイクを新調してついにこのベースにも取り付けライブでも使いやすい状態にしたのだ。

 2010年、フォークロア・セッションの録音の少し前だったと思う。ある日松永さんから電話があり、癌が発見された事を聞いた。ただ、心配しないでくれ、たいした事は無いが、今は薬で疲れやすいのでレコーディングの希さんを同行させたい、との確認に済んだ。が、それからは私は積極的にロンサム・ストリングスのブッキングはしなかった。中村まりとの一連の作業に集中すべく舵を取った。そして、フォークロア・セッションが発売される頃、松永さんは完治の旨を我々に告げた。実はそれなりに進行していた、と聞いていたので、とてもホッとした。髪の毛は黒く長く、パーマをかけたようになっていたが、検査通院は続いていたので、ツアーは希さんが同行した。

 ロンサム・ストリングス&中村まりのキャラバンは大成功で、どこもほぼ満員だった。が、直後に松永さんから転移の旨を知らされる。たいした大きさでは無い、と言うが、完治も時間がかかるようだ。一生癌につきあう覚悟で治療に臨む、だから、仕事は遠慮せずに入れてくれ、と念を押された。ただ、一ヶ月に一週間程治療の為入院するので、その事は了承願いたい、と注釈つきだが、もちろんの事だ。

 話は戻るが、ロンサム・ストリングス&中村まりの岡山での事だ。その日の夜は神戸でのライブだったので、ゆっくり昼食を食べてから向かう行程だった。皆で玄さん御用達のカレー店「クワイエット・ヴィレッジ」に行く。Jの字のカウンターなので、一直線に腰掛けた。店の壁にはフォークロア・セッションのフライヤーも貼ってあった。私の左隣が原さんで、その左隣に新しくカップルが入ってきた。我々は既にカレーを食べている最中だ。カップルの男性の方が、フォークロア・セッションのフライヤーを指差し、昨日観てきたんだよ、ロンサム・ストリングス&中村まり、とても良かったなあ、と、とても通る良い響きの声で言ったのだ。私はその時、ありがとうございます、とすかさず挨拶すれば良かったのだが、男性は矢継ぎ早に、でもベーシストのルックスはまるでホームレスだったよ、と言ったのだ。実は松永さんに関するこの手の話はそれなりにあって、私にとっては笑い話に過ぎないのだが、中村さんはハラハラしていたようだし、原さんは食いながら肩を揺らしてこらえている。もちろん、玄さんも松永さんも声を出さずに笑っている。私はほぼ食べ終わっていたので、煙草が吸いたくなって外へ出たのだが、やはり、声をかけるべきだったと反省はしている。ただ、カップルだったので、気まずくさせるのも嫌だし、おそらく我々が退店して店主がそれとなく告げてくれれば、と思ってしまったのだ。その夜の神戸でMCネタにもなったが、やはり普通に声をかけておけば良かった、と思い起こせば、まだ悔やんでいる事でもある。

 そのツアーの後、一度だけロンサム・ストリングス4人のライヴをやったのが、9月に矢口博康さんのガストロノミクスと吉祥寺で。ロンサム・ストリングス&中村まりの5人としては、年が明けて、1月の原さん主催のイベント、トーキョー・ブルーグラッシングが最後だった。そして、今年5月の連休明けの目黒でのカルメン・マキさんがおそらく松永さんの最後のライヴだったと思う。

 その日、久しぶりに会った松永さんは長い髪の毛が無く、ニット帽をかぶっていた。訳は分かるが、随分、さっぱりですね、と言うと笑っていた。希さんが横でしきりに、カッコいいでしょ、カッコいいでしょ、と無理矢理同意を求める口調で迫られたが、似合っていたのは事実だ。

 それから、数日後、スタジオで会った松永さんは喫煙所で、実はさぁ、経過がとても良いんだよぉ、薬が合うのかなぁ、食欲も戻ってきたし、と、旨そうに笑いながら煙草をふかした。

 そして、二週間後くらいにアフターソーツ録音で伊豆に向かう。元気が無かったようには感じなかったが、一週間の入院の後なので、体力は戻っていないように思えた。出番が無い時は極力休むように伝えたが、スケジュールもタイトだったので、速やかに作業を進めた。だが、OKテイクが決まるまでは、コントロールルームで体力を温存しているようにじっと座っていた。

 その時の様子はアフターソーツのDVDを観ていただければ、よくわかるはずだ。奇しくも最後の録音が映像付きなのだ。

 DVDの収録が終わり、今回の録音作業は終わった。その後、皆で旨い刺身を食い、少し天気は悪くなり始めたが、松永さんは一足先に帰った。運転は希さんで、車に乗る時の松永さんはいつものように、じゃ、そういう事で、また、と言って我々は見送った。松永さんと直接交わした最後の言葉だった。

 そして、帰京し一週間後くらいのミックスの最中に肺炎で入院の報を受ける。ソーラスのフロントアクトは急遽欠席だが、その後のスケジュール確認は問題なかったし、8月のライジングサンへの希さん同行の手筈も整えた。


 そんな事を思い起こしながら、ビールから日本酒に移った。畠山美由紀さんが到着し、昨年のライヴの件で話が弾む。彼女は希さんとは旧知の仲で、普段はこの女同士の会話にはおいそれとは入り込めない。今日ばかりは特別だが、とは言え、うなずくばかりだ。

 もう一度、松永さんに挨拶して、帰る事にした。こだまさんはまだ飲んでいた。

 翌日は池袋でチューバの高岡大祐さんとサックスの泉邦宏さんとのライブだった。両者とも特別な音を出す音楽家だが、特殊では無い純粋に良い音だった。私もただ単に音で答えたり、リードしたり、と自然に音を紡いだ。とてもシンプルなライヴだった。少なくとも演奏しているときは、音しか頭に無い。終演後はとても清々しかった。見に来てくれた鈴木常吉さんがとても簡潔に褒めてくれ、酒を酌み交わす。良い夜だった。


 終電も近い。明日は通夜か。

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